抹茶飲んでからマラカス鳴らす

FC東京サポで鷹党のどうでしょう藩士による映画・アニメを中心とした感想ブログ

記憶の中に「瞳をとじて」感想

 どうも、抹茶マラカス(@tea_rwB)です。

 今回はビクトル・エリセ新作。生きているうちにこういう話を聞くレジェンド級の人の新作が見れるというのはありがたい限りです。セカチュー世代の人が邦題をつけたのかと思ったら全然英題がclose your eyesでした。

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WATCHA3.5点

Filmarks3.6点

(以下ネタバレ有)

1.重なる劇中劇

 始まった途端、頭の中のコナンくんが「あれれ、おかしいぞ」と言い出します。映画監督が撮影中に消えた親友だった俳優を探す話と聞いていたのに、全然違う。なんか1950年代舞台だし、中国人の娘探しに上海に行ってこいとか言ってるし、なんじゃこらとなった訳でございますよ。いや、ほんとここで何がどうなってんねんと頑張りましたよね、そうなったらここは劇中劇、まさにこの作品こそ俳優がいなくなってしまってどうすることも出来なくなってしまった作品ですよ、ということで。

 まあつまり劇中劇が構造上完全に重なるようになっている訳で。映画の撮影中にいなくなってしまったフリオを探すことになったミゲルっていう構図と、悲しみの王の娘を探すことになったあいつ(名前何だっけ)の構図っていうのが被っている。その上で、今回探すことになったフリオは記憶喪失になっており、自らを海兵隊出身で映画俳優だったフリオではなく、高齢者施設で働く便利屋おじいちゃんガルデル(この時の名前も怪しい、記憶力アカンな)としての自己定義になってしまっているというのが難しいところ。最後に明かされる劇中劇のラストでは、知らんこっちゃな感じを満々に出していた娘が悲しみの王の旋律によって彼を自らの父親として認知し、そしてそれを機に幸せに悲しみの王は喜びの中で人生を閉じる訳です。一方で、そこに映し出されたフリオとしての、記憶の中には全くない、しかし確実に自分だろうな、という存在の映るフィルムを見た彼はフリオとしての記憶が戻ったのか、そこについては明言はされませんでした。ただ、エンドロールでやけにヤヌス像が映っていたこともあるし、そして劇中劇との重なり方を考えると監督であるミゲルは死ぬ=映画監督としての未練は終わり!ということだと理解したので、恐らくは彼はフリオとしてではなく、ここ数年の人格として生きていくのではなかろうか、と思いました。

 そして、付け加えるのであれば、勿論これはビクトル・エリセ監督ご自身のことを投影されているのも間違いないだろうな、ということでしょう。30年以上ぶりに長編新作を撮るという時点で何らかの心境の変化というか、なんかあるんでしょうし、そこの気持ちが影響した作品であることは間違いないでしょう。スペイン語を読める気がしないのでインタビューを掘ったりしていないので全然違ったらごめんなさい。

 いずれにしても、いったいなぜ俳優は姿を消したのか?というミステリーという設定にはなっているが、基本的にはミゲルが監督としての自分を捨ててこれからの未来を見る、という話な訳で、このクソ長い2時間50分ぐらいは、そこの向き合い時間っていうものです。監督の過去の名作『ミツバチのささやき』を見ていなくて申し訳ないんですが、そこにアナという役名で出ていたアナ・トレントが再びアナという役名ででるのもこの式典に過去を出席させて、未来へと目線を変えていく宣言だと思うのです。宣言だからこっちに最後目線を全力で向けてくるのです。