抹茶飲んでからマラカス鳴らす

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食べるのは大事「川っぺりムコリッタ」感想

 どうも、抹茶マラカス(@tea_rwB)です。

 今回は東京国際映画祭での上映後に公開延期となり、じっくり寝かせてようやく登場となった荻上直子監督最新作。余談ですが、TBSラジオSessionを聴いていると、荻上はどう考えても「おぎうえ」に思えてしまい、監督が「おぎがみ」であることの理解を脳が拒否します。

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WATCHA2.5点

Filmarks2.5点

(以下ネタバレ有)

1.ごめんなさい

 見終わって、いや、見ている途中から思い浮かんだ単語は、グロテスク、気持ち悪い、残酷、そういった類のものでした。それは映画自体もそうだし、この映画を見ているこの空間も。

 作品は、前科者のマツケンの再スタート。電車を降り、富山の川沿いの平屋のアパート、と呼んでいいのかもわからない建物といかの塩辛工場から彼はやり直す。その生活は、テクノロジーを殆ど排した、ユートピア的なスロースタイル。窓から見える中庭でムロツヨシが野菜を自給自足し、マツケンの部屋には本当に令和なのか怪しいぐらいの物しかない。ムロさん以外も立派なミニマリストと呼んでいいレベル。彼らはスマホを持たずに公衆電話を使うし、贅沢と言えばすき焼き。川沿いに不法投棄されているのか、大量の粗大ごみはダイヤル式の電話が目立つ。はて、一体いまの若者にダイヤル式電話、コードの繋がった受話器、という概念が伝わるのだろうか。それぐらい、この生活はアナログである。そういう生活の中で、死んだときに「さみしい」と言ってくれる関係性を求めて、アパートの住人たちのふれあいを描く訳だが。

 ムロさんは少なくとも5年はいて(寺の坊主が幼馴染とか言ってたしもっと長い)、吉岡秀隆は、明確に子どもを連れ回して墓石を売って歩く。劇中でも子どもを山車に使うなんてひどいと詰られていたが、明確にこれは虐待だな、と思ってしまう。この子に与えられるべき教育の機会は与えられているのだろうか。そんな中で吉岡秀隆の発する、ふぐさしのことを考えてみよう、とかこいつ何言ってんの?でしかない。

 結局のところ、描かれていたのは、ムロさんが親から聞いた『蜘蛛の糸』といい、やってきた豪雨により畑が台無しになる様子は完全に賽の河原の石崩しといい、階層移動を許さない地獄絵図、貧困の再生産。それなのに、それを良きものとして見ているような「清貧」っていう概念を食いつぶしているような、そういう嫌らしさをずっと感じる。この人たちにはスマホもないし、サブスクもない。その生活を映画という中産階級的なメディアで消費する我々っていうので、またグロい。ささやかな幸せ?????これは地獄めぐりでは???そう思い始めると、ムロさんの一挙手一投足で笑っている映画の試写会の観客も最悪に近く思えてくる。作中の人物たちに、映画っていう選択肢が無さそうに見えるのに、それを映画で見る。自分を含めて本当にこの空間嫌だな、ってずっと思ってました。

 事程左様に、現実から遊離した、ありえない世界の「清貧さ」を娯楽のタネとして食い尽くして、現実の貧困に目を向けるような話でないどころか、お前らはそのままそこの階層で得られるささやかな幸せを受け取っておけ、みたいなメッセージを感じてしまう。そして、そうして描かれた「生」が薄いようにしか思えない、メシしか考えてないようにしか見えないので、「死」も軽くて仕方ない。もし死んでも、あー、岡本さんみたいに化けて出ればいいね?ぐらいの軽さ。ダイヤル式電話でかけられる宇宙人の存在と同じぐらいの軽さでしか「死」を描いてない。生きることは、食べること。それは映画における基本だと思っていたが、ここまでおいしそうなのに生きていない食事を見ることになるとは、予想外だった。