抹茶飲んでからマラカス鳴らす

FC東京サポで鷹党のどうでしょう藩士による映画・アニメを中心とした感想ブログ

覚悟はいいかそこの人類。「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」感想

 どうも、抹茶マラカス(@tea_rwBです。

 エンタメとして最高!というタイプの映画ではないです。むしろ常に刃を向けられていると思います。でも、だからこそ可能ならば全日本人が見て、感想を出力して、共有していきたい。そういう映画だと思いました。

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WATCHA4.5点

Filmarks4.5点

(以下ネタバレ有)

1.何故彼らはぬいぐるみとしゃべるのか。

 物語の舞台は、ぼかしてはあるがどう考えても立命館大学であり、そこのぬいぐるみサークルだ。一見、ぬいぐるみを作るサークルかのようにチラシには書いてあったが、そこはぬいぐるみに話しかけるサークルであった。サークルの掟は2つ。ぬいぐるみは大切に、とぬいぐるみと話している内容は聞かない、ということ。

 一般的に言えば、ぬいぐるみに話しかける行為、それ自体はすごくセラピー的な感じがして、あるべき社会に戻るための行為、みたいに位置付けされるだろう。SHIROBAKOのことを思い出す。ミムジーとロロね。だから、当然その内容は他者が聴いてはならんわけで。どこもかしこも公共空間な中で、イヤホン、ヘッドホンをすることで私的空間を確保するのだ。

 ぬいサーの彼らは、すごく優しくて、弱くて、辛くて、傲慢。傲慢だから全部引き込んで自分事だと思って考えて傷つく。鱈山先輩とか、世界中の殺戮とか戦争を自分事として捉えていて、それを全部悲しみとして捉えていたら、それはもうヒロアカのデクとかみたいな、ちょっとあり得ないレベルの傲慢ですよ。世界を救えるとある意味で思っている、というか。

 で、そういう人に取り敢えず善意として投げられる「大丈夫?」は喉元にナイフを寸止めしてるだけっていうことです。だって大丈夫じゃない、と正直に言えば、その先の話をすれば、質問を投げかけた側も傷ついてしまう。

 だから、彼らぬいぐるみに話しかけて、悲しみを、傷つきを供養していく。ぬいサーの面々は優しすぎて、傲慢すぎる。それだけだったら良かったのに、でもぬいサーという社会がそこに出来れば、またそこに入れない人が出てくる。ぬいサーを壊さない為に、ぬいサー以外の場所が必要なのだ。

 そこに対して、いや傷ついてしまってもいい相手を探すのがコミュニケーションであり、友情であり、麦戸ちゃんと七森くんを優しさから自由にする為に白城ちゃんがいる。麦戸ちゃんがボタンを落とした時に、ぬいぐるみと話さずに麦戸ちゃんに気付いて一緒にボタンを探して孫の手を貸してあげる人が白城ちゃんなのだ。いやー新谷さんの素晴らしいバランスの演技もありましたが、いやまあ彼女が一番輝いて見えるように作っていますけど、本当に魅力的でした。彼女のような結節点になる存在もいて、傷ついちゃうタイプの人もいて。両方の世界を分かって、なお、見守ってくれて、変わることを強制しないでいてくれる白城ちゃんは本当に凄まじい人だと思います。

 凄く難しいことを言っていると思いますよ。公共空間がすべてになって、私的空間を確保するための、だけど本当に一人にならない緩い紐帯としてのぬいサーだったんだけど、それが公共空間になっていく。なっていくから、やっぱり公共空間をいくつか持っておいて、ぬいサーみたいな場所を一個持っておきたいね、っていうそういう話だと思います。

 その上で、彼らがぬいぐるみとだけ共有できる辛さっていうのを観客は特権的に聞くことができる、という暴力性も少し考えてみたくなります。ちゃんとした考えがまとまらないので言及には留めますが。

2.マイクロアグレッションと生きづらさ

 基本的に本作で描かれる傷つき、生きづらさは我々の日常にすっかり潜んでいる。「彼氏いるの?」「絶対お前童貞だろ」マイクロアグレッションと今はいう、簡単に触れる危険スイッチが会話には潜んでいる。ちなみにもっとも分かりやすくマイクロアグレッションを表現すると、本作は女性監督作品、ということになります。わざわざ表記することの意味。

 マイクロアグレッションについては、以下の本やTBSラジオ「アフター6ジャンクション」内で荻上チキさんが子の本を推薦した放送を聞いていただきたいと思います。

 そういうマイクロアグレッションが、あまりにも日常に溶け込みすぎて、「嫌のこと言う奴はもっと嫌な奴でいろよ」と言いたくなるぐらい悪でもない。社会はそんなもんなのだ。七くんだって、社会参画の為に、おかしくはない、から白城ちゃんに告白して付き合う。私はこの人を好きになるのが社会通念上適当と思われるから告白して社会通念上のカップルというものになっておこう、という段取りを勢いでしてしまった訳だ。ちなみにこれは、「感情の機械化」と私が高校生の時に命名している。唐突な黒歴史だ。

 で、いちばん見ていて辛かったのは、自分がこの映画だとどこに生きてる人物なのか、っていうところだ。言い方が悪いがそこそこ傷つきやすいほうだという自負はある。でもじゃあぬいサーに自分がいるかといったら、多分いない。むしろ私は、きっと七森くんの地元で飲みに誘ったアイツなんですよ。なんか悪いことを言ってるやつの周りにいて、そいつを止めることもせず、気分を悪くした人に気を使ったようなことを言って白城ちゃんに自分ではなっているつもりになっている。ああ自覚がある。本当に嫌になる。

 というわけで、一旦映画からズレて自分史になってしまったが、多分それが一番大事な作品だったように思える。この映画は結局対話が大事だと言っているんだけど、そこまで凄く丁寧に積み上げてぬいぐるみと喋ると言う一瞬社会と接続するのとは逆の行為を経ている慎重さがある。常識とか、規範でそうだからそうするのではないのだ。2023年に日本映画がこれを作って送り出してきた。邦画も捨てたもんじゃない。だから、次は邦画に捨てられない為に、観客もしっかり応えないといけないと思う。(勿論、念頭には大阪アジアン映画祭でのありえない客のことがある。この映画を見てあのQが出てくることがおぞましく思える。七森くんが男であるだけで誰かを加害してしまうかもと悩んでいるのを見て何だと思ったのだろう。)