抹茶飲んでからマラカス鳴らす

FC東京サポで鷹党のどうでしょう藩士による映画・アニメを中心とした感想ブログ

平成と令和の間「PERFECT DAYS」感想

 どうも、抹茶マラカス(@tea_rwB)です。

 新年の映画始めでありますが、まだ昨年の積み残しです。そしてこの映画の上映中に能登半島における大地震がありました。上映中に緊急地震速報と揺れを体感したものの、係員の誘導などが起きず上映も止まらなかったので大したことないパターンかと思ってしまいました。正常性バイアス

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WATCHA4.0点

Filmarks3.8点

(以下ネタバレ有)

1.

 カンヌ国際映画祭で見事に主演男優賞を獲得したヴィム・ヴェンダース監督最新作にして、アカデミー賞国際長編部門の日本代表となることも決定している作品です。そりゃあカンヌもこの作品を評価しようとするときに役所さんのところになりますわな。喋んない喋んない。たっぷりと1日のルーティンを見せる序盤ではほとんどしゃべらず、流石に人と関係する段になって喋るようにはなりますが表情で見せるのが殆ど。そしてそれが、おそらくヴェンダースの(もしかしたら欧米人の)思う勤勉で仕事にやりがいを見出している日本人としての表象なので好感を持つでしょう。

 そういうちょっと含んだ言い方になるのは、流石にトイレが綺麗すぎること。トイレ掃除の話の割に全然汚くない。それが問題というよりも、一定程度漂白されて良いイメージのトイレを映すことが求められる映画なのだから仕方がない、という印象。もとがトイレ側がイメージを変えたくて作っている映画なので。役所さんの作業着が1着しかないのが気になったり、トイレ内のごみ拾いが素手だったりとちょこちょこ怪訝な顔になる仕事描写はありますが、それでも大丈夫な日本のトイレ!っていう、そういう映画なんで。ええです。むしろ、それでもクソトイレとして描写していた(描写していたよね???ごみが木の間に挟まっていて面倒そうだったもんね!?)隈研吾であることの確信しかもてないトイレが出てきたのでよくやったとすら思った。隈研吾への私怨。

 さて、そうしたトイレを掃除するばかりの毎日。平山はその後に銭湯に行き、浅草の地下の飲み屋をで一杯やり、休日はコインランドリー→写真屋→古本屋→石川さゆりの小料理屋と変わらない日常を過ごしている。平山の周りは常にどこかアナログで、spotfyが分からぬ。背景に堂々と新時代の象徴たる東京スカイツリーが輝いているのに、平山自体はまるで(平成も含むイメージとしての)「昭和」を生き続けている。彼と街の接点は新しくてきれいなトイレばかりだ。街は変わっても、彼は変わらない。ように見えた。(ついでに言えば、巨人は金で引き抜いてばっかりとか言ってた飲み屋の客も平成を生きている。多分HR打ったの岡本だったもの。)

 どんなに彼が変わっていなくても、姪が家出してきたり、同僚が突然やめたり、石川さゆりの元夫の三浦友和が癌になったり。ちょっとしたことが日常に変化を与えて、全くつながらない世界に生きているように見える世界が繋がっていくんだ。凪な日常だって、積み重ねていけば波は起こるし、例えば銭湯で姪を連れていたのを目撃した常連たちにもきっと何かの変化が訪れただろう。そういう色んな変化が重なった時に、影が濃くならないと、変わらないなんて悲しいと平山だって言ったじゃないか。

 多分、平山が令和と断絶しているのは彼が服役していたからだろう。特に劇中で明言はされないが、丁寧且つスピーディな畳み方、やりすぎる掃除、基本無言、トイレに人が来た時に待ってる姿勢、妹との断絶、父との確執と条件はそろいすぎている。割と短気だった西川美和監督『すばらしき世界』で演じた三上との違いも想起されて面白い。

2.清貧とかその手の話。

 どうしても考えてしまうのは、この手の映画の立ち位置の難しさと自分の感覚のバランスがとれなくなること。言ってしまえば、トイレ清掃の現実を映していないんじゃないかとか、ヴェンダースが日本の綺麗なところだけ掬い取って見せているだけじゃないかっていう内なる批判に対する応答の出来なさ、とでも申しましょうか。

 『川っぺりムコリッタ』という作品がありました。あれを見ている時は凄く残酷で、グロテスクな表現だなってずっと思って、それは凄く富める立場から貧しい人の立場をエンタメ的に消費していないか、貧しくても何もなくても、でもごはんはおいしいです!こういう生活素敵!みたいなのはダメだろ、と思った訳です。

 その時と比べると、見ていてこれは絶対ダメだろ、みたいな感情は湧かなかったし、そこはヴェンダース荻上直子の絶妙な橋を渡る感覚の差なのかもしれませんが、それでもこの映画に対してその手の問いがゼロかと思うとそれもそうではないよなっていうライン。

 じゃあ、もっとしんどく、汚く、辛く描けばいいかのというとそれも違うというか。酷ければ酷いほどいいというのもエンタメ消費の違う形であり、真にしんどい人に対して映画館で金払って見ている構図って言うのが酷いなっていうのは同じ、あるいはもっとクソだなっていう感覚もある。『そこのみにて光輝く』とかは素晴らしい作品だったんだけど、あいつらの底辺ぶりを見て喜んでる私っていったい、となる。