抹茶飲んでからマラカス鳴らす

FC東京サポで鷹党のどうでしょう藩士による映画・アニメを中心とした感想ブログ

慣れ「関心領域」感想

 どうも、抹茶マラカス(@tea_rwB)です。

 今回はアカデミー賞でも音響賞などを受賞した作品をアトロクコラボ試写でした。

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WATCHA4.0点

Filmarks3.8点

 

 ずーっと全ての回を聴いてきたTBSラジオ「アフター6ジャンクション2」コラボ試写ということで、宇多丸さんと宇垣総裁にご拝謁賜った上に席は最前列で写真を撮る箕和田Pまで見れて感激でした。荻上チキさん&南部広美さんのSessionチームとブラインドサッカーした以来の感激であります。

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 そんな作り方あるんかい、というフレッシュさが明確にある作品だった。描かれるのはシンプルな家族物語。ルドルフ・ヘスさん一家の見事なお家探訪とその転勤で念願のマイホームを手放したくないよ、という夫婦喧嘩。だが、あまりにもあまりにも違和感がありすぎる。このお宅、アウシュビッツのすぐ横にあるのだ。

 丁寧に丁寧にお宅拝見させてくれるのだが、長ーい庭を肥料を運ぶリアカーは、塀の長さ、アウシュビッツの広大さを示し、それは即ちそれだけ多くの人間が殺されていることを示している。常に鳴り響く悲鳴・銃声、立ち上がる炎、流れが早すぎる気すらする川に襲った異変。例えラスト直前に現代のアウシュビッツを映されていなくても絶対に気づくその違和感はずーっと拷問のように我々に襲いかかる。劇的に虐殺を描かない、むしろ本当に間接的にしか見せないことでそこに常にある暴力が際立つ。絶え間ないショックは体力を奪い続ける。ぐったりである。あと違和感というと、はためく洗濯物など邸内では明らかに風は吹いているのに雲が動かなすぎたり、木々が揺れなすぎたり、そういう違和感も。そんな環境に完全に慣れているどころか、捨てることを拒むザンドラ・ヒュラーを狂気に感じるだろうか。決してそんなことはないだろう。彼女の関心にその風景が、その音が入ってないだけなのだ。そしてその姿は結局、空調の効いた映画館でそれを見ていて、そこから「帰宅」というプロセスを経るだろう観客席に突き刺さる。あーキミ帰るんだ?直接君の家に塀は無いかもしんないけどさ、同じだぜ?って。

 そんな中で、リンゴをこっそり仕込んでいるレジスタンスの少女を人間の持つ正の側面、ポジティブな面として取り上げているのではと試写会後のトークでなされていたが、まあ宇多丸さんの言葉を借りるなら甘ったるい。甘すぎではなかろうかと思えてしまう。ラスト、ルドルフが嘔吐し視点は現代に移る。アウシュビッツの蛮行を伝えていくために負の遺産として堅持され続けるその未来が提示された上で、ルドルフに話が戻る。確かにルドルフはここで自らの振る舞いの帰結を無意識的にでも勘付いたのだろう。『アクト・オブ・キリング』を思い出す嘔吐だ。でもその上で彼は、彼なりの暖かい我が家のために階段を下り、暗い道へ進んだ。私にとってそれは人間なんてそんなもん、という諦念に見えた。

 一方で、全ての事象を関心領域に入れて過ごすことの不可能性は考えなくてはならない。ホロコーストから学び、現代のパレスチナで、ウクライナで(劇中、何故か『世界が引き裂かれる時/クロンダイク』を思い出した)、世界各地で起きている虐殺から目を背けるようなことはあってはならない。でも全部を自分ごととして考えて、どうにかしようとあがくのは傲慢で優しすぎて傷付いてしまう。そう『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』で痛感したではないか。目を背けてはいけないが、全部自分ごとにしすぎてはならん、エンタメとして消費しては不味いけど、語られずに忘れ去られてもならん。この面倒な塩梅を面倒だろうと噛み締めて自分にできることをしよう、月並みだがそう言うしかない。