抹茶飲んでからマラカス鳴らす

FC東京サポで鷹党のどうでしょう藩士による映画・アニメを中心とした感想ブログ

非日常と日常「デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション」感想

 どうも、抹茶マラカス(@tea_rwB)です。

 今回はデがいっぱいつくやつ。デデデ大王ぐらいでしかこんなにデがつく名前を僕たちはまだ知らない。前章の歌は好きだった。

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1.前章

WATCHA3.5点

Filmarks3.3点

 浅野いにお作品初のアニメーション化!などと宣われても、やはりというべきか漫画文化にほとんど親しみがない身としてはどうしたってふーん、ぐらいのもの。流石に浅野先生の名前や『おやすみプンプン』のことを聞いたことぐらいはあるが、知らんわ、こっちはドラゴンボールだって何も分からんで生きてるんじゃ!という謎の逆張り精神で日夜生きている。

 そうした前提に立った上で言うと、どうにも浅いというか、核心に触れることを何もしていない前章だけでは評価もクソもないだろ、と言わざるを得ない。確かに幾田りらとあのの声優としてのスキルは決して貶されるものではないというか、キャラに合っていて評価されるのもわかるがしかし、そのキャラ自体がイマイチにしか感じられなかった。好きになれなかったキャラの日常ものというのはやはり退屈だ。3ヶ月かけてそのキャラクターたちを好きになっていけばいいテレビシリーズと違って2時間でそれを達成しなければならない映画というメディアの難しさを痛感する。特にあのが演じたおんたんは何か言ってる風で何も言っていない言動がどうにも心が動かない。どうやら彼女は「シフター」らしく、ドラえもんを彷彿とさせまくっているからタイムリーパー扱いなのか、世界線移動なのか、その辺はおいおい後半で明かすのだろうが正直興味が今んとこはない。そんなに盛り上がってない日常の中に突如超ロング回想、しかも多分記憶にない回想を見せられてもそれは作品上でキャラに作用することがないので観客に対する説明にしかならない、即ち大きな停滞を生む。あとシンプルにあの教師はなんだ、ただのクソ男じゃねえか。日常ものやりたいならアイツいらんだろ

 冒頭でその襲来を述べた謎の円盤の飛来と鎮座、それによる日常化は現代ならコロナに慣れていく様子を感じるし、やたら感化されてる門出の母の様子からしたらフクシマでもあるだろう。と同時に割と大雑把と言うか、テンプレ的に異星人との接触を描いたりする自衛隊描写で垣間見えるところにはFPSと同じ感覚で人を殺せる現代兵器とゲーム文化への浅すぎる批判と湾岸戦争や9.11をテレビを通して知っていった身体の拡張としてのメディアの様子も見受けられる。日常パートをしていって世界か絶対の関係かを描くにしては余りに自衛隊描写が多すぎて邪魔だし、新しさも感じなかった。有事のシミュレーション的な面白さも既に平成ガメラシンゴジラ以降で出尽くした感もあるし、宇宙人ものはフレンドリーも敵対も今の私にはヘイルメアリーと三体がいるのだ、3年いたからなんだよ、三体は4世紀後に来るんだぞ、と意味のわからない対決姿勢を示している心中。

閉塞している日常の変わらなさを日常系というジャンルに落とし込もうという試みも、ごめんなさい何と言われると今パッと出てこないんだけど既視感があるのはある。

 まあですね、所詮ヴィレヴァンによく考えたら立ち寄った経験がほぼない人間に浅野いにおなんて無理なんですよ、あたしゃサブカルにもなれないハンパものでさぁ、と書き記して2ヶ月後の自分に託そうではないか。

 

2.後章

WATCHA3.0点

Filmarks2.9点

 根本的な思想が割と相容れないタイプなのにそれ以前の問題だった。

 非日常が鎮座してもそれは日常に侵食されていく、という前編はそれ故に退屈ではあるが設定として面白さは持っていたと思う。何にも描けてないキャラ描写と説明だけの前線の方がマシというのも悲しい話だが、そう思えたのだから仕方ない。後半は非日常が日常に侵食されてく話を続けそうな気配を見せつつ日常が突如終わる(しかもそのプロセスに門出もおんたんも関係ない)…ようで終わらない、なんとも玉虫色の決着だった。

 大きな世界の危険、人類の終末を前にそれでも日常は続いていくことを示していく大学生活それ自体は納得するものの、段々と話が展開していくにつれ、そもそも物語的な命題といえる世界と門出のどちらをおんたんは選択するのか、というセカイ系的な問題の決着は既についており、そこになんの達成も無い。それを大葉こと侵略者くんとマコトが追体験するはするのだが、それは観客への説明にしかなっていなくて追体験したことでマコトが何かを得たり、変化することはない。決断が回想の中でなされる時、大葉くんがおんたんに別れを告げて向かう先は世界そのものであり、続く日常とは断絶している。ましてやパリや北京やニューヨークでどうなったかなんてどうでもいい。そんなところを欲するならディザスター大作を見る。そこじゃないだろ、この作品の見どころは。その上で結局日常が続いている。いや、非日常がもう日常化したテンションだった。じゃあもう徹底して欲しい。あんなスペクタクルはいらん。東京がヤバかったらしい、でいい。大葉くんは帰ってこれなくていい。そんなに帰ってきて欲しかった大葉くんが帰ってこなくても、東京が壊滅しなくても日常って続いちゃうよ、でおんたんと門出は絶対!で締めてよ。大葉くんの活躍にカメラがくっついていったらそれは完全に非日常ヒーローものになってしまう。あの状態での2人こそ見たい。

 登場人物としては、ふたばもマコトも前編で蒔いたとはいえ、後編を見た段階で蒔く必要があった種かも分からなければ、というか前編まるまる無くして3時間の映画一本の方がまだマシだったと思う始末である。マコトがおんたんの過去を大葉くんの道具で知るシーンは観客にとっては前編の後半の再体験にすぎないので極めて退屈なシーンであり、それを知ってマコトがなにか作用するのかと思ったらただ知りました、で終わる意味のなさ。わーお、金返せ。それぞれの映画で見せ場を作ることに一生懸命すぎて全体を誰も見ていないのかな??

 『天気の子』のことを想起はするだろう。だが天地の差があるように思える。ただ限りない君との関係と世界を天秤にかけて、それでも大人がケツを拭くから若いのはどーんとやってきなさい、というセカイ系だからあの作品は輝かしい。この作品のおんたんは別にそういう葛藤はしていない。世界を手放すかもしらんとは聞いていても、そこに具体は無く、可能性の規模のものだ。これでは世界を捨てたのではない。単に縋ったにすぎない。

 と同時に勿論時期的な問題もある。『天気の子』アフターの世界であると同時に、パレスチナの今でもある。そのタイミングで元は地球に住んでいた種族がまた戻ってきて定住しようとする行為を侵略者と呼び、そしてそんな世界でも捨てて絶対のあなたを取る、という大筋の結論(この結論に至っているとも思わないと重ねて申し上げておくが)自体もまたサブカル的な立場による消費にしか見えなくなってしまう。あなたがいれば世界はどうなってもいい、と言う態度は『関心領域』で我が家と理想の生活を捨てられないザンドラ・ヒュラーの姿そのものであり、それでも世界のことに関心を払っていこう、それで何が変わらなくても、というスタンスを見せていくのがある程度の前提として人類が共有するものでは無いのか、と思ってしまう。世界と未来を、現在地と過去から学びながら考える不断の努力をしようという提案が笑われる事態は嫌いとかそういうの超える。何も変わらないなら何もしなくていい、そんなわけないだろ。君は僕の絶対、だから全肯定ではダメなこと、現実のファンダムカルチャーで今痛いほど見ていないかい?

 と書いてから、これってセカイ系を冷笑していることになるのだろうか、冷笑ってどういう意味なんだろうともう一度考えたくなります。アイロニカルとシニカルの違い。