抹茶飲んでからマラカス鳴らす

FC東京サポで鷹党のどうでしょう藩士による映画・アニメを中心とした感想ブログ

実験「悪は存在しない」感想

 どうも、抹茶マラカス(@tea_rwB)です。

 今回は世界三大映画祭全受賞という偉業を達成した濱口竜介最新作。ヴェネチアでランティモスより下は納得いかんなあ。

 

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WATCHA4.0点

Filmarks3.8点

(以下ネタバレ有)

1.美しき仕事

 あれ、なんかカメラ上に向けてる。そんな視点の映像濱口竜介にあったっけ。と思いきや、あー濱口竜介だな、と思い出さされる冒頭。ただ延々と丸太をチェンソーで切り、それを薪割りし、水を汲む。ここまできってやっと喋ってくれる。さすが、長いが見ていられる。この一連がこの後にまた『美しき仕事』に通じる。なんで通じるんだ。

 さてさて、話は水が大切、自然が綺麗という田舎に芸能事務所がコロナ補助金目当てにグランピング施設を計画する、というもので住民運動という段階すらも描かない。いかに自然と共存するかを住民たちが唱える説明会の後、現場担当者たちに話がスライドし中間管理職の悲哀物語になる。なんか分かった気になって自己解放し出す男の方は本当に悲惨である。巧にタバコを求められて自分のを差し出したが、巧は火を自分でつけるし、その後彼は車内で自分のタバコを吸う。相手を理解しようとした結果、巧は理解できない相手と捉えたのだろう。鹿はどこかに行く、では共存ではなく、それゆえにコイツとも共存できない。

 巧は言った。ここは戦後の開拓世代の場所で、言ってみれば全員余所者だし、自然も破壊してきた。大切なのはバランスだ。ありきたりな環境保護論や開発否定に向かう話で無いことを示した端的な予告だが、それはこの作品自体への個人的な思いに結果的になってしまった。音楽が邪魔すぎる。もともと石橋英子の音楽用に作った映像から生まれた作品と記憶しているが、それ故に音楽の主張が従来の濱口竜介作品より強く感じる。特に2度ほどある劇伴をかけておいてプッツンと途切れさせて何かが起こったかのように思わせる演出は陳腐。長々と会話や何気ないものを見せ続けているのにその様子や反復から意味が生まれていくのを楽しんできた濱口作品において、そこに音楽が加わるとかえって無駄な時間っぽさが増してしまうように思えた。こと、濱口竜介においては、やけに音の大きい薪割りの斧の音を延々楽しんでいたいのだ。そういう意味ではカメラもかなり横に動いていた気がする。娘探すシーンとかもフリとしての時と本ちゃんの時で同じ場所横移動してなかったかしら。気のせいかもしれん。そう思うと濱口監督なりの実験作なのかもしれない。

 そう、薪割り。薪割りである。これは結構大切な要素に感じていて、何かのものを2つに割ってしまう、その気持ちよさを高橋という男も述べていたが、本当に快感なのだろう。だが彼は決めすぎる。グランピング建設か、管理人かの2択にしちゃって分かった気になる。そうじゃない、共存の仕方を考え続けていくことが大切なのだろう。タイトルを持ってくるなら、善悪に二分して楽して気持ちよくなるんじゃねえよ、って感じである。悪は存在しないのではなく、善悪を裁く立場に人間はいない、というか。何か二つが対立している状況になった時、それは相対的にどっち側かであって絶対的には善や悪、自然や破壊みたいな対立軸に論ずるのが違うよ、みないな。鹿を撃つのが悪いとも言ってない、でも巧は絶対人を襲わないと断言してしまったから因果応報、娘が襲われた…のか?(ユニコーン・ウォーズの影響をまだ受けている文章。でも案外ユニコーン・ウォーズって近いところにある作品だと思う)

2.ラストが分からないので教えてくださいの巻Part2

 Part1は『ヨーロッパ新世紀』です。めっちゃ似ている映画でしたね。

 正直もう最後のところはポカンである。高橋が首絞められて泡吹いた段階でこっちも困惑しきりだ。娘が鹿に襲われるのを見せたくなかった(自分の絶対を否定されることで中立性が失われるのを見せたくない)かと最初は思った。あるいは、もう倒れているのでその帰結を見せたくなくて。でも一応鹿と娘が対峙してるシーンで引いたショットで高橋たちも一緒に映ったし、襲われる瞬間ではあったか。そして娘を抱っこして森に消えていくし、もしや巧と娘はそもそも自然そのものの擬人化だったのか、そもそも存在したのか?便利屋とかいう見事に空虚な存在は、という疑問にまでなってしまう。その場合は高橋への自然からのカウンター、ということになるのだが。だが!巧は従前の通り、自然でも人間でもない共存を信じている(願っている?適当な日本語がわからん)のだから、彼自体も娘が襲われるかどうかのジャッジを「絶対襲わない」といってしてしまったことで鹿に手を下せなくなった、ってとこかしらとなっている。発言の責任を取るというより、立場的に中立だったので今更介入できない、みたいな。

 というのを踏まえても、巧はアカン。自分の娘が比較的死にやすい環境において学童に迎えにいくのをしょっちゅう忘れているというのは親として言語道断であり、っていうか学童の先生も何しれっと1人で返してるんじゃ!と思ってしまう。お前らみんなまとめて『ミッシング』見て子どもがいなくなったらどういう心境になるのか勉強してこい(あまりにも娘に無関心なことが巧が自然の擬人化なんじゃね、と思った一つの理由ではある)

 

 それでは、Bunkamura ル・シネマ渋谷宮下に飾ってあったヴェネチアのトロフィーの写真でお別れしましょう。

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