抹茶飲んでからマラカス鳴らす

FC東京サポで鷹党のどうでしょう藩士による映画・アニメを中心とした感想ブログ

聖職「ありふれた教室」感想

 どうも、抹茶マラカス(@tea_rwB)です。

 今回はアカデミー賞の国際長編部門のドイツ代表としてノミネートした作品。今年はナチを描いた『関心領域』がイギリス代表で、フランス映画の『落下の解剖学』が英語ベースだし、『PERFECT DAYS』の監督はヴェンダースだし、もう訳が分からん。

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WATCHA4.5点

Filmarks4.6点

(以下ネタバレ有)

 

 いやー地獄地獄。ルービックキューブが最後には揃うようにしてたから救いがあるように見えるけど、個人的にはルービックキューブが最初から揃わないようにパネルをいくつか交換されてんだろ、というぐらい詰んでた。頭っから。

 盗難が多発してる状態の学校で職員室におとり置いたろ!カメラもつけとく!ということをすると倫理的に証拠採用されづらいとか、まあ確かに主人公として不適格ではあるんだが、最後は一応助けてくれる先生とその取り巻き女筆頭に職員室の環境が終わってる。イヤホン両耳ウェブ会議中に雑談しに話しかけてくるやつ死刑でいいだろ、あんなもん。そりゃ大金持ってるから盗んだに違いないとかいう戦時下みたいな価値観で検査しだすわ。挙句、コーヒー料金をちょろまかすどころか盗んでるやつまで出てきた上で、みんなそれ気付けない学校は終わりだって。

 そんな終わってる学校で子どもと思って舐めてた相手に正論で戦われて為すすべなく荒れていくのは仕方ないというか。オスカーくんはまだ感情的に母を守ろうしていてるから理解はできるが、カンニングバカや悪口ルーカスくん、純粋そうな顔して新聞部など凶悪問題児がたくさん。彼らをリードしているかにみえた授業始まりの挨拶や注目の儀式にも「付き合ってあげてた」スタンスであり、子どもであろうと一個人として対応するべきと彼らを尊重する監督だ。というか、同じようにバレたら嘘つく、を大人もしているわけで。分かりやすく割れ窓理論的に、一つの綻びから完璧に見えるような教室空間であろうとも崩壊してしまう。1と0.999999…は同じか、違うか。

 教師と生徒、という関係は学校、教室という空間で相対した時に崩れることはない。仮面をつけないと教師はいけない。義務だ。その時教師は学校を背負っている。保護者相手も同様で学校という組織の決断には追従しなくてはならぬ。一方で職員室では教員の仮面を脱げる代わりに教室の代表、子どもの代弁者でもなくてはならない。究極、教員とは人間ではないのかもしれない。あくまでシステム、構造として知識や教育と子どもを媒介するものにすぎず、そこに人格など求められない。誠実さが求められているようであって、誠実であることは証明できない。日本の話になって申し訳ないが、人間じゃないから教員の給料は給特法でみなしで払われ、労働時間の管理をしていないのにインターバル規制とか言い出す。人間じゃないからね。酷い国だと思います。働いた分だけお金を貰うことがそぐわない職業ってなんなんでしょう。

 日本の構造的なクソ文化はさておいても、極めて不幸せな人間関係を構築するしかないのが教師なのだ、と教育関係のはしくれ?なのかも怪しい人間からしてかなりズシンと来る、そういう映画でございました。それと、保護者会で保護者によるSNSグループで議論が共有されていることが明らかになった上でカーラはそこに参画できていないことは現代的でもあると思う。日本の学校でもタブレットが配布され、電子連絡はなされている。ありふれた教室という空間はもう学校に留まることなく拡散を続けているのだ。

 そして何より恐ろしいというか、秀逸なのはここに邦題をありふれた教室と付けるセンス。勿論、teaches's loungeなので本来は職員室の方が主題なのだが教室というところに主眼を置き、「ありふれた」という形容詞を付けたことでここで起きたことが特別な学校の特殊な事例ではなく、極めてどこでも起こることなんですよ、を示すことに成功している訳である。文科省が金を引き出せないことによる教員不足が叫ばれる日本現状と、カーラが辞めようとするのを止めるロジックが教員不足で代行まみれなことは完全に一致する。こうなるよ、ではなくおそらく既にこうなっているのだ。