抹茶飲んでからマラカス鳴らす

FC東京サポで鷹党のどうでしょう藩士による映画・アニメを中心とした感想ブログ

全国民罹患の危険「シック・オブ・マイセルフ」感想

 どうも、抹茶マラカス(@tea_rwB)です。

 今回はノルウェー映画。なんか監督の次回作はニコケイ主演、アリ・アスタープロデュースで、A24製作と決まってるらしいです。北欧が舞台なだけのノースマンやミッドサマーはともかく、ハッチング、LAMB、やっぱA24に北欧好きいるだろ。

ポスター/スチール写真/チラシ A4 アクリルフォトスタンド入り パターン3 シック・オブ・マイセルフ 光沢プリント

WATCHA3.5点

Filmarks3.7点

(以下ネタバレあり)

1.承認欲求

 分かりやすくミュンヒハウゼン症候群的な映画である。ミュンヒハウゼン症候群は、構ってもらうために自分に病があると思いこんだりする精神疾患だと認識しているが、本作の場合はそれを行き過ぎた自傷行為のような形で昇華している。何者かでありたかったシグネは、芸術家のパートナーという立場に満足しているように思えたのだが、彼の個展開催に伴って自己肯定感を刺激されてしまう。そのタイミングで彼女の働くカフェに血だらけの女性が倒れこんできたことで、彼女は救出者という立場を手に入れる。自身がヒーローかのように思えたことで高揚した彼女は、街中の犬に自分を噛めと強要するが、犬の方が利口だ、決して応じない。そうなっていくうちに、アレルギーだと偽ってパーティで痛々しい振る舞いを続け、ついには皮膚に異変が出る副作用があると分かっている薬を大量に飲用して搬送される。

 彼女の目的はあくまで悲劇のヒロイン的な立場としてみんなから注目され、話の中心にいることだから、セルフヘルプグループでの平等な立ち位置や、より重症と思われる患者の容態に納得がいかない。こういうタイミングで「私たちは一つの薬を信じています。新鮮な空気です」とか言い出すグループの長がいるあたりに若干のポストコロナ風刺を感じますがまあそれはそれ。注目を浴びることに成功はした彼女だが、当然詐病では無いので自体は悪化していく。肥大化した承認欲求が自我を覆いつくし、内側から身体を破壊していく様子を実写化して見せる見事な手腕には脱帽であるが、何者かになりたい自己、っていう点で共通項の見られる『わたしは最悪。』と比較すると、どこか物足りなさを感じてしまったのも事実である。

2.表現者の業

 さて、この映画が風刺しているものっていうのは、一億総発信者時代の現代SNS社会の批評、というのがまあ一般的な見方だろう。ただ、個人的にはSNSの病理とひとくくりにするのも難しいというか、勿体ないのではないかっていうように思えた。個人的な信条として、全ての表現が政治的である、と同時に全ての行動もまた表現でもあるというのも同様に堅持している考えだ。どんな服を着るか、どんな曲を聴くか、どんな番組を見るのか。どんなことをしていてもそれはある種の自己表現でもあり、それが政治的であることからは逃れられない、人の営みの調整こそが政治だからだ。失礼、政治的であることは今回は大きな問題ではなく、すべての生活がまた表現でもあるのだっていうことだ。こうした視点からは、この映画で示されたのは表現者の業だという語られ方も可能ではなかろうか。本作の主人公となるシグネも自身の体を表現手段として用いるモデルへと成り上がりを果たすし、シグネの彼だって一応はアーティスト、芸術家である。そしてシグネにNoを突き付けた記者という職業は無論表現の範囲に入ってくるし、後半になってくればモデル事務所の社長、CM監督といった表現畑の人たちが続出する。一介のカフェ店員だったシグネが注目を集めるようになった血のTシャツだって、良く考えれば自己プレゼンテーションであり表現だ。

 こうした一般人の承認欲求や他者からの視線というものを描くにあたって、表現という手法を重視しているということは、いわゆる「表現者の業」みたいなものを芸術家という人たちの特権からはく奪するような行為なのではないかな?って。例えばのんの主演監督作『Ribbon』など、表現者の業を描いた映画っていうのは大好物だったけども、その表現っていうのが特別なことではなくなった、ということは「表現者の業」映画というジャンルが成立しなくなったことを示唆しているかもしれないし、何か世界全体のフェーズが一個ズレたのかもしれない。