抹茶飲んでからマラカス鳴らす

FC東京サポで鷹党のどうでしょう藩士による映画・アニメを中心とした感想ブログ

エンドロールから始まります「TAR/ター」感想

 どうも、抹茶マラカス(@tea_rwB)です。

 今回はアカデミー賞で多くの部門にノミネートされたものの無冠に終わった作品。まあ同じ立ち位置にスピルバーグもいるし、無冠が誹りを受けるものでないのは間違いありません。とはいえ個人的な評価は、たまたま『逆転のトライアングル』と同じ枠になりました。

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WATCHA3.0点

Filmarks2.9点

(以下ネタバレ有)

1.重要なのは時間だ

 指揮者は時間をコントロールできる。大事なのは時間だ。そう何度も言う。だが劇中で彼女はどんどんコントロールを失う。それは彼女が明確に下に見ていた隣人のような衆愚のせいだ。だから、他人をコントロールできなくなる新時代、スマホの使い手のロシア人チェリスト・オルガの登場あたりからおかしくなってくる。でもコントロールされてる時間は本当に退屈。まじで1時間ぐらい?ライブ録音のリハまでやってたけど、流石に仕込みとして長い。後半以降は、どんどん時間に対しても、自分に対しても、あるいは周囲に対してもコントロールが効かなくなって暴発していく様子は、編集からも明らか。かなり脚本としても強引に感じました。結局、指揮者はコントロールじゃなくて、コンダクトなのだ。そこを彼女は履き違えた。明らかにあの講義で全員の前で晒し上げる行為はパワハラである。ターが優れた音楽家であろうと、許される行為では無い。優れた求道者が優れた教育者とは限らない。

 でもリセットの舞台に東南アジア、そしてモンスターハンターオーケストラとクレジットされてたのでゲーム音楽かな?そこを選んでるのはもうはっきりそこを下に見ているようで、トッド・フィールドもまたリディア・ターと同じ俎上に載せられるべきではなかろうか。そういう疑問が残る(町山さんが分からなかったのは確かに分かる笑)。マッサージと言われてやってくる売春宿の描写とかステレオタイプすぎねぇか。クラシックという世界において、西洋白人男性優位主義だからそれの対極っぽい描写、それは分かる。でもそんなにクラシックは偉いのか?その狭い世界内でのそれで終わっていいのか。上映後のトーク、森さんと立田さんは権力構造からの解放、クリシェとしてのオリエンタリズムみたいな感じで肯定的に捉えているが、そっから脱却しなくていいのか。そして、失っただけで反省の描写も無いのにそれはどうなのか。少なくとも、この映画でアジアに飛ばされた段階で彼女はサングラスで目線を隠したままだ。注目を要求する仕事を描いておいてそのサングラスの意味は。彼女は何も変わっていないように思えた。

2.解釈で楽曲は変わる

 何が起きたか、ということは作品を解釈する人次第で変わる、というのは劇中にも言われる通り。ターが本当にクリスタに性的交渉を求めて拒否されたからあらゆる楽団に連絡していたのか、秘書をやってきたフランチェスカにもそういうことはなかったのか?オルガにもそう言う感情を抱いていなかったのか?それは分からない。分からないけどそう解釈できる。

 やっていることは、完全なるおじさん行動であり、例えば東京芸大にアイドルが入ってくると知ってウキウキで職権乱用だぁ!とつぶやいた職員と何も変わらない。それ自体は別におかしくはないものだが、はっきり言ってベルリンフィルで歴史に残る指揮者となった人物とは思えない。その地位にいれる人間にしては政治ができなさすぎる。これまでに例えばレズビアンであることを誹謗中傷したりされるようなものがあるのではなかろうか。

 そういう中で、西洋白人男性優位である社会を利用した、逆手に取った作品でそういうことをしているんだから猶更。そうなると、レズビアンというクィアな表象を利用しているだけに思える。なんだろう、キャラ属性増やせたぞ!みたいな。この辺は日頃アニメーションだと大体無批判に受け止められる自分事としても考えないといけないな、とは思うんですがどうなんでしょう。町山さんのラジオの情報が本当なら(一次情報にあたらない怠惰さでごめんなさい)元は男性指揮者を想定していたっていうことで、そこからケイト・ブランシェット用に書き直しているはずなので、うーんそこでそういうことになっちゃったかな。性加害やハラスメント当事者をそういう属性を持って描くことは、勿論あり得る事態なので分かるんだけど、こうモヤってました。

3.キャンセル

 結局は、キャンセルカルチャーと才能の問題という側面のある作品でしょう。なんでもかんでも簡単にキャンセルしてしまっていいのか?このリディア・ターという才能を?卓越した才能は欠格者であるという、これもある種のステレオタイプかもしれない。

 そしてこれに関して言えば、少なくともこの作品におけるリディア・ターはキャンセルされて仕方なしだろう。キャンセルされることは、リスタートを許さないこととは違う。

 私個人の感覚だと、才能は衆愚と向き合う必要はあるよ。少なくとも、誰かを傷つけて生まれる傑作なんていらないと思う。衆愚だろうと、受け取る大衆が無くてはどんな芸術だって芸術にはならない。

 未来永劫禁止された方がいいとは思わないけど、現代進行形の傷つけと過去のそれを同一視して経歴や作品群を無くしていいのか!みたいな論調は極論すぎる。キムギドク、ポランスキー、ウディアレン。作品を見れば素晴らしい、とは言い切れないよ。被害の声を受け止めることもせずに出された作品がおもしろけりゃええの?それは絶対に違う。リディア・ターは告発に対して真摯に受け止めることをせず、自殺した遺族にlieと言い切っている。そういうスタンスでいる人が発信する芸術、再出発を素直に応援はできない。

 上映後のトークでは、今更黒澤明を見るな、とは言えないだったり、音楽やるならバッハは聞かなきゃやっぱりダメだといった発言があった。それはそうだ。現代に至るまでになされた過去の道程は敬意を払われるべきだし、それを参照しないのは基礎の無い建築物になってしまう。

 でも、そういう言い方じゃ無いでしょ。それを見ることと当時の加害を知ることは両輪でしょ。『国民の創生』だって、現代の映画に非常に有効な技法を数多生み出している。でもこの映画には但し書きがされる。一緒だ。無批判に受け止めて、黒澤明級の傑作を撮るために同じ犠牲を強いてもいい、という話ではない。どんな映画だって放送されていいが、その冒頭には但し書きをして、当時のことを学べる環境を作っていって再発を避けねばならない。おんなじようなことを、これを試写会で見たタイミングで言えばジャニーズ事務所に対しても思っている。加害者が死んでも被害者が告発しているなら主体である組織として向き合ってほしい。そうでないと、この事務所が主体となって動かすエンタメは享受はできないですよ、ふつーに。

 ああこの人たちは面白い映画を見れればそれでいいんだろうな、と思ってしまった。これまで参加したどんなトークよりそこで盛り上がって予定時間を超えてやってるのは残念でならない。