抹茶飲んでからマラカス鳴らす

FC東京サポで鷹党のどうでしょう藩士による映画・アニメを中心とした感想ブログ

せめて、人間らしく「神は見返りを求める」感想

 どうも、抹茶マラカス(@tea_rwB)です。

 今回は𠮷田恵輔監督の最新作。こちら、大変明るめの𠮷田恵輔となっております。但し、𠮷田恵輔であることに変わりはないので、くれぐれもお気を付けください。

f:id:tea_rwB:20220610234532j:image

WATCHA4.5点

Filmarks4.4点

(以下ネタバレ有)

1.「ありがとう」が欲しくて

 本作は底辺Youtuberだったゆりちゃんが、飲み会で知り合った田母神さんに助けてもらったんだけど、なんかいいデザイナーにバックについてもらえて田母神さんを切り捨てちゃったら、復讐に走る田母神さん、っていうそれだけの話なんですね。媒体がYoutubeっていうだけで、クリエイターと協力者っていう関係性において、これまで協力してくれていた人をどう切るか、っていうのは度々描かれてきたことでもあるし、その時に出てくる連中が軒並みクズっていうのも割とありがち。

 もうね、この皆々様のクズっぷりが素晴らしいですね。『空白』の時は誰も悪くない、っていう体(個人的に古田新太は悪いと思って受け付けなかった)だったんですけど、清々しいぐらいに全員クズなのでね、もうエンターテイメントとしてこっちは楽しく見られます。勿論、この人たちはすっごく等身大なので、そうやってゲラゲラ楽しんでいると、刺し返されます。でも、それも含めての𠮷田恵輔じゃないですか。

 まずはシンプルにゆりちゃんが分かりやすい成金志向。出会った時の底辺っぽさもですが、成りあがっていくにつれての変化を髪型の外はね具合とか、原色からパステルカラーになっていく衣装とか、映画的に見せるのが基本的に上手い。いるよねー、自分が触れ合った範囲のレベルが上がっただけで自分もランクアップしちゃったと思う人。あ、そういう振る舞いしたこと自分もあるような…?

 そういう酷い人、ゆりちゃんに対する存在なので、田母神さんが凄い良い人かというとそうでもなく。最初はゆりちゃんの部屋で撮っていたYoutubeが生レバー事件の謝罪を、多分壁が白いっていう理由だと思うんですけど、彼の部屋で撮ってから映画の主人公は完全に彼に移行していく。それはさながらゆりちゃんねるの主導権が彼に移ったことを意味するようでもあり、実際彼の手元を放れていくと彼もその部屋から離れることになる。フツーにうまい。

 まあなんですか、他も自分は凄いと思ってんのか他者への扱い酷いデザイナー村上、悪口メッセンジャーで小市民のワルNo.1の若葉竜也最後通牒含めて凄いし、純然たる悪として結果的に君臨する害悪Youtuberの彼も酷い。彼もそうですけど、「キャラ」みたいな意味も含めた「仮面」っていうのが印象的ですよね。始まりの飲み会でも壁に仮面がかかっているし、田母神さんは着ぐるみをかぶりますね。

 これだけクズなみなさんが、「見返り」とか「登録者数」とかそういう見えないものに振り回されるわけですけど、田母神さんは金銭よりも善意を、労力を返せと要求している。それってどうすればいいの?とゆりちゃんは叫んで逃げますが、最後に「ありがとう」と言われて微笑む田母神さん、そうか、その一言が欲しかったんだね…。

2.時代に負けない表現者

ただ、新しいのは復讐する側のスカッとジャパンの為に、田母神さんもYoutubeを始める、即ち同じ土俵でぶん殴り返せるっていうところ。これが絶妙なのは、現実世界でガーシーchっていうものが出現したことで、何十年もかけてきた芸能の世界に対するカウンターっていうものが成立したり、っていうことでこの一瞬で描いてしまわないとこの映画の描写自体も現実にスピードで負けちゃう可能性があると思わせるところ。

 着ぐるみの話もしましたが、ジェイコブの着ぐるみを燃やすっていう村上的に言えば、田母神除けでもある決別行事をゆりちゃんは途中でストップした。勿論、燃やしたから自分が大火傷を負うことになったわけですが、致命傷に至らなかったのは逆に言えば燃やしきらなかったから。ジェイコブは、ゆりちゃんねるそのものになっていて、この時代におけるアバターと生身の自分の同一性っていうのを思わせます。

 で、田母神さんが欲しかった「ありがとう」が出てきた経緯っていうのが凄くいいな、と思って。この映画におけるYoutuberって、ものすごく刹那的に描かれていて、それこそ何十年も続いてきた芸能の世界へのカウンターでもあるんですけど、何百年と読まれてきた小説、何十年とみられてきた映画、そこに続くメディアとしてちゃんと並立して描いていて、決して下に見ていない。で、そういう一過性の世界の中で生きてきたなかで、自分がその世界にいられなくなるかもしれない大やけどを負ってしまって、自分の存在意義が揺らいだ、その瞬間にカメラを向けてくれた田母神さんは、ゆりちゃんに被写体になることを許してくれた人な訳ですよね。しかも、直前の迷惑Youtuberと違って、ゆりちゃんねるを肯定している。そこで出てくる「ありがとう」。

 表現者としての業、みたいなものはYoutuberにもあるんだよ、っていうことは、これまで描かれてきたいろんな創作者における業と並ばせて、あんたらもクリエイターだ、表現者だ、って高らかに迎え入れているように感じました。なんで表現するの?っていうのが、誰でも表現できる時代になって多少薄味になっているのかもしれない。それでも、表現することであるのに変わりはないよね、っていうことです。あれ、なんだろうどこかパリピ孔明8話っぽい感じもする。あと明確に『BLUE』でもあるよね、それをしたくてたまらん人の業