抹茶飲んでからマラカス鳴らす

FC東京サポで鷹党のどうでしょう藩士による映画・アニメを中心とした感想ブログ

大根さんも頑張れ「シン次元!クレヨンしんちゃん THE MOVIE 超能力大決戦~とべとべ手巻き寿司~」感想

 どうも、抹茶マラカス(@tea_rwB)です。

 点数の基準はシン・仮面ライダーより低くつけていいのかどうかでした。

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WATCHA2.5点

Filmarks2.6点

(以下ネタバレ)

1.シン次元アニメ表現

 3DCGにしたことによる下ネタギャグがちょっと嫌な感じには映った。けつだけ星人とかは良いのだけど、深谷ネギコの胸に着地する天丼とか、ブラジャーマン及び細い路地にお尻がつっかえて入りづらい、とか本来ならクレしんとしての違和感のないギャグが浮いた気がする。いや、ギャグ自体は面白かったと思うし、ほんとにクレしんっぽいギャグだったと思った。笑ったところもあった。難しいねえ。ここはもう個人の感覚の問題。

2.とにかくストーリーが酷い

 新自由主義の敗者を悪者にし、保守的な家族観の野原家がもはや富裕層に見えてしまう現代とのギャップを問う作品かと思ったのに、答えは「がんばれ」という自己責任論に帰結していてすごくダメだと思ってるけど、新自由主義が好きな人にとってはすごくいい映画なんだと思うし、それなら言葉を変えるなら嫌い。そも、いじめや孤独感に対して戦わなくてもいいよ、という寄り添いでなくとにかく勝つまで頑張れ、というのはとっても嫌な世界だ。頑張った先でも勝者と敗者は生まれるし、勝敗に関わらず自己肯定感の低い人間、居場所のない人間は出てくる。そこにしんちゃんがどう寄り添うかが見たかった。っていうか、5歳のままずっと寄り添ってくれるって話だったじゃん!実際、非理谷は派遣社員(日本の非正規は36.9%もいる!)でティッシュ配りをして、推しを応援してリアルを充実させていた普通の人だ。そんな彼が敗北者扱いされた時にどう寄り添うか、でしょ。なんでここで「君たちはどう生きるか」で予想してた説教されなあかんねん、駿だから許そうと思って待ってたんじゃ、大根仁だとなんかムカっときちゃうよ(個人の好みで大根さんには大変申し訳ない)。

 自己責任論でありながら、ノストラダムスの隣人のヌットラダマスの予言の通りに進む決定論的な物語の進め方もよろしく無い。だって頑張ったって予言の通りになってしまうのだったら、それは頑張る意味がなく、それは個人ではなく社会が間違っていることにであって、国家転覆はともかく社会構成を何とかしないとという危機意識が共有できるものになってしまう。結局非理谷さんの犯した罪も全て悪のエネルギーというもののせいである、という設定にされているので決定論としては彼は悪く無い(なお車は弁償させれそう、それはひろしからしたらそうだ)扱いでこれも決定論的に収束している。スーパーヒーロー映画で描かれた能力をどう使うかが大事だ、という前提にも立てていない。

 長寿コンテンツであるクレヨンしんちゃんにおいて、3DCG化および外部監督と言える大根仁の招聘は作品コンテンツの宿命、意義などに立ち返ったり、現代とのギャップにメスを入れる「お決まり」から逃れる格好の機会だったのだが。そう思い出すと、ひろしの脚にひまわりとしんのすけが捕まった瞬間に足の臭いで勝つな、と思ってしまったことも決定論という名のパターナリズム(あるいはオトナ帝国という希望)からちっとも抜け出せていない作品だったことを象徴する気がする。パターナリズムだけはあるから、ノスタルジーからの解放を謳ったオトナ帝国と真逆の保守的な家族観・加害者を責めない新自由主義的自己責任論を吐くひろしという地獄が生まれてしまった。

 それでもあえてこの作品、というか大根仁にかけるなら「頑張れ」しかないよね、この映画のメッセージを汲むなら。