抹茶飲んでからマラカス鳴らす

FC東京サポで鷹党のどうでしょう藩士による映画・アニメを中心とした感想ブログ

第一の故郷「ソウルに帰る」感想

 どうも、抹茶マラカス(@tea_rwB)です。

 今回はカンヌのある視点部門、東京フィルメックスを経ての日本公開となる作品。

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WATCHA3.5点

Filmakrs3.6点

(以下ネタバレ有)

 まずもって凄いな―って感じたのは韓国の解像度。どう考えても韓国映画の文脈を分かってるでしょ、と言わざるを得ない全州とか群山の描写、そして韓国民謡の使い方。もうもう特に群山パートの解像度高いですよね。会いに行った先にいた自分を捨てた父は、自分の故郷を見せたいと語り、韓国人の結婚相手を探すから韓国に移住しろ、なんていっちゃうあのお父さん。でそこに対する受けの嫌悪感マックスなフレディの顔。良かれと思って言ってて、それが悪い方に転がっていく韓国というか東アジアの家父長制圏の地獄感、いやー普通に韓国が製作に入っているのだろうと思ったら、監督のダヴィ・シューはカンボジア系のフランス人であり、この作品もアカデミー賞カンボジア代表だったということで。すっごい文脈から韓国を舞台にしたアイデンティティの話が飛び出してきました。『ミナリ』とか、そういう移民とアイデンティティの流れで出来る作品は監督の経験を私小説的にやっているのだろう、という自らの思い込みを悔いる必要があります。

 そしてこの流れで思うのは、良かれと思ってお父さんの言った韓国語を話せると便利だから勉強しといた方がいいぞ、っていうアドバイス。シンプルにお父さんからしたら韓国っていうのが世界のすべてで、そこに参入していくだろう存在としてのフレディ、いや彼にとってはヨニというべきか、ちょっと傲慢でもある。でも、この映画における韓国語の存在っていうのは結構重要で。韓国で産まれ、フランスに国際養子に出されたフレディはフランス語体系、フランス語文化圏で過ごしてきて形成された人格。だから韓国に来ても韓国語を話せず、常に通訳を必要としている。それが彼女の周りとの新しい関係性を作っていくことにもなるんだけど、韓国語が分からない状態のフレディにとっては、韓国語を押し付けてくるお父さんは、フレディをヨニとして定義してくる存在な訳で、フレディからしたらもうダメな訳です。彼女はまだ自身のアイデンティティを模索している訳で、ヨニとしてのアイデンティティを他者から押し付けられるのは嫌な訳です。だから数年ののち、韓国語も多少解するようになった後に産みのお母さんとも再会し、その一年後に彼女にメールを送るところでフレディはヨニとしてのアイデンティティも折り合いをつけることができる。言語っていうのは、自分が想像する以上に自分を構成する重要な要素なんでしょうね。

 時間が結構あっという間に飛ぶ上に、その間に一体何があって彼女はこんな状態なのだろう、どういう変化があったのだろう、どうして諦めていないんだろう、どうして、そういう想いばかり募る映画だった。フレディの中の母への想い、韓国と自分との距離感っていうのに折り合いをつけていく過程の要所をピンポイントで抜き出して、隙間は想像していく。ある意味で凄く芳醇な作品、と言えるでしょう。そしてまた冷酷でもある。フレディのことをこちらが何かの言語で規定していくことも拒否している作品でもありますし、フレディがヨニとしての自分に折り合いがつこうとも、産みの母の方にも折り合いとか気持ちの整理があって、細い縁は互いが望まないとあっさりと切れてしまう。