抹茶飲んでからマラカス鳴らす

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単に消費の先の行動を取りたい「マイスモールランド」感想

 どうも抹茶マラカス(@tea_rwB)です。

 本当は全く関心を示していない作品だったのですが、試写会にお誘いいただきましてね。せっかくなら行こうじゃあ、ありませんか、という訳で見てきました。

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WATCHA3.5点

Filmarks3.3点

(以下ネタバレ有)

1.青春を許されない

 埼玉県の川口市で暮らすクルド人家族。主人公はその長女サーリャだ。5歳で日本にやってきて、日本の高校に暮らし、日本のコンビニでバイトしている、アイデンティティがもはや日本にあると言ってもいいような彼女。だけど、お父さんはバリバリにクルド人としての生活を重視していて、生活の中に祈りとかそういうものがしっかり入っている。いわば、家では、あるいはコミュニティではクルド人として振る舞うことが求められ、一方彼女の世界では、いつからか自称したドイツ人、異邦人としての日本語話者っていう立ち位置を求められる。本作は、クルド人家族がただ生きることが困難であるという事と共に、一人の少女のアイデンティティを巡る物語でもある。

 序盤は、日本で暮らすクルド人一家の日常をシンプルに映しています。勿論、それだけで日本に暮らす外国籍(国籍という概念がまた使いたくない概念ではありますが)というだけで向けられる目線、クルド人コミュニティと日本人との間の温度差、その辺をしっかりまずは見せる。ただ生きている。

 ところが、難民申請が却下され、仮放免と呼ばれる状態になったことで、就労・許可なしの埼玉県外への外出などが禁止されてしまう。でも、生きていくには食費も、家賃も必要なのに、働くな、と言われるし、東京の大学に進学したかったのに、東京に行くことすら許されないし、推薦も拒否されてしまう。それでもサーリャは、東京でこっそりバイトを続ける。埼玉県と東京都っていう区域を超える様子は、やはり国境を越えて確かに存在しているクルド人の姿にも重なり、人が後から引いた境界線というものの無意味さを感じさせる。

2.もやもやを抱えて

 仮放免となっていても、お父さんは就労を続けたことで入管に収容されてしまう。再び難民申請を出して、一旦の在留資格を得るか、強制送還か。でも、お父さんは当然難民申請をするぐらいなので、国に帰れば、命は保証されない。

 日本の入国管理行政の問題点は、今更ここで論じるまでもない酷さだと思いますが、そこをやはり思わせる難しさ。何故ただ生きていくことに、許可が必要なのだろう。

 一方で、この映画では、そんな彼らを支援してくれる人たちもいる。長男の小学校の先生はサーリャを担当して以降もクルド人だけでなく、あらゆる子どもたちのために頑張っているし、高校の先生だって、善意が空回りしているけど、ちゃんと対応してくれている。勿論、支援してくれた平泉成だってやれるだけのことをしてくれている。藤井隆だって、あの人なりの優しさは示してくれた。でもそれだけじゃ、足りない。個々人が個々人だけの優しさを発揮するだけではどうしても不足してしまうし、それを個人に押し付けて解決しようとするのはおそらく不可能だ。

 で、その不可能さを観客にも感じさせるもどかしさがある。この映画を見て、こういうことを知っていくこと、関心を示し続けていくことが大事なのはその通りなんだけど、でもそうやって「良い映画だったね」と劇場を出てくるだけで単純消費してしまっていいのだろうか、というモヤモヤ。だからといって、何ができる。そういう無力さも感じてしまう。

 もやもやついでに言うと、シンプルにクルド人コミュニティを称揚している作品でもないんですよね。サーリャの意志関係なく、クルド人コミュニティの中で結婚相手を決めちゃう描写もあるし、男どもは騒いでばっかに見えるし、サーリャが日本人とクルド人コミュニティの架け橋を担わされていて、クルド人同士は自分たちの言葉で会話できるから、日本に馴染むような姿勢は見られないようにも思える。サーリャのお父さんは、日常会話が日本語で出来るのでむしろものすごく努力した人だし、そうじゃなかったら入管でももっとひどい扱いを受けていそうですらあるし、でもそんな人でも日本にいることに許可をされない、っていう悲しさもある。うまいこといかないものか。少なくとも、そういう移民・難民に不寛容な社会を作ってきてしまった一員としてのちょっとした責任は感じます。

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