抹茶飲んでからマラカス鳴らす

FC東京サポで鷹党のどうでしょう藩士による映画・アニメを中心とした感想ブログ

"普通"は通じない「聖地には蜘蛛が巣を張る」感想

 どうも、抹茶マラカス(@tea_rwB)です。

 タイトルが覚えられません。「Holy spider」か「アリ・アッバシの新作」としか言えない。聖地に蜘蛛がうんちゃら。

The Holy Spider

WATCHA3.5点

Filmarks3.5点

(以下ネタバレ有)

1.普通が壊れる聖地

 本作はイランで実際にあった連続殺人事件を題材にしたフィクション。娼婦ばかりが狙われた事件を女性記者が調査するっていう作品に仕上げて前半が事件パート、後半が裁判パートとして、描いている。

 描かれる犯人サイードは、良きパパ、良き夫であるように描かれ、ある意味で模範的な信者で、彼の殺人にも正直言ってしまえば信念が無い。カリスマ性もないし、すっごく凡庸な人間だ。戦争に従事したが、死ぬことが出来ず、「神が俺をただの建築屋に作ったはずがない」という生きる理由を探し、殉死できなかったことを悔いているが、死刑執行では命を惜しむ、狂信者とは言えないレベルの人間だ。娼婦を殺すのが宗教的正義だと思っているが、一応殺す前にヤる煩悩にまみれた人間だ。彼が特別に女性蔑視をしていたわけでもない。彼が殺人に快楽を求めたわけでもない。

 じゃあ、この作品は何を告発しているのか、と言えば彼は普通である、ということだ。ビシッと冒頭で被害者の一人の殺されるまでを追う過程で売春・薬物・ヒジャブといった現在のイランにおいても続く社会的な問題を見せ、これを主人公に対してもホテルの予約の件などで再度突きつける。取材していくうえで、警察は言い寄ってくるし、彼女に非常に好意的な仕事上のパートナーだって緩やかに彼女にセクハラかました人物への擁護もする。サイードの妻は、街の腐った女に鉄槌を下したと宣い、殺されても当然のヤツを殺しただけだから無罪というダイナミック擁護をかましてくる。息子は父から聞いた殺し方を妹相手に喜んで微に入り細を穿つように再演する。世間は娼婦殺しを肯定し、イスラム法に反した存在だと糾弾し、サイードの無罪を訴える。

 それがこの聖地では、普通なのだ。特別なことはサイードには全くなく、この聖地においては基準値の存在であり、つまりは基準が、聖地が、社会が、即ちイランという国が、イスラム教という宗教が、どこかおかしいのだ、という告発だ。勿論、女性蔑視ではあるんだけど、多分彼らは女性を憎んではいない。軽んじてはいる。でもそれがおかしいと思っていない。ミソジニーよりもっと根深い、社会において温存されている地獄が顕現しているだけなのだ。(滔々とそんなことを述べていたけど、でも切り裂きジャックってフェミサイドだよなぁと思うとサイードもフェミサイドだしなぁ。フェミニズムに関しての色々はもっとちゃんと勉強した方がいいな、と改めて思いました)

 日本に住み、西洋的な人権感を持っている身からしたら、生まれ持った性のせいで、夜間に歩くことすら詰られ、男と同じライフステージを歩むことを拒まれ、着たいものを着れず、そしてそれが宗教的に正当化される。ふざけているとは思うし、神が殺すならいいが、神の名のもとに殺すのは違うだろ、とか宗教の解釈の歪み的な部分にも言及したくなる。(今なお続くイランのヒジャブ抗議デモの話は終わっていないはずだ)

2.でもアリ・アッバシならもっとやれるでしょ?

 さて、そのうえで、でも期待を超えなかったと思うのが正直なところだ。アリ・アッバシはこの事件がイラン国内にいるうちにあってずっと心に留まっていた、と言っているようだが、本当にそれだけであって、何かその先に関しては興味が無いのではないだろうか。告発に留まった印象しかない作品に終わったが、少なくともイランにおいてこうした映画はきちんとつくられてきたうえで、それをエンタメに昇華する試みは行われていると思ってきた。無論、ファルハディがその代表格ではあるし、今回の構成上『ジャスト6.5』も思い出しはしたが、これらの作品はそうした要素を告発したうえで、映画として、物語としての面白さを担保していた。そうしなくてはイランの中では上映できない、という制約のせいかもしれない。中国映画もそんな感じだ。

 だから、今回のアリ・アッバシにもそういうところを期待したのだが、外にいるせいか、告発に終始してしまったように思える。身に着けているヒジャブで首を絞められるという女性であること故に社会が殺しに来ているっていう描写。そして、バイクの2人乗りや記事を書く行為、喫煙行為。男性の既得権益に切り込もうとした女性が狙われてしまう、という切り口に見えたが、そうした演出はポイントポイントに留まって線にはならなかった。