抹茶飲んでからマラカス鳴らす

FC東京サポで鷹党のどうでしょう藩士による映画・アニメを中心とした感想ブログ

自分を知らない、ましてや他人は「The Son/息子」感想

 どうも、抹茶マラカス(@tea_rwB)です。

 今回は試写会にお誘いいただいて見てきた作品です。その後のカレーがおいしかったです。辛かったけど。辛いの苦手でもインドカレーはまだ食えそうという発見。そう、まだ知らない自分を見つけた、なんて人は言いますが、自分なんて知らないことだらけ、そういう映画です。

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WATCHA4.0点

Filmarks3.9点

(以下ネタバレ有)

1.自助と共助の限界意識

 なんでしょう、物語としては離婚したヒュー・ジャックマン演じるピーターとローラ・ダーン演じるケイトの息子ニコラスに関する問題をヒュー・ジャックマン視点で描くもの。ニコラスがどうも学校に行っていないらしい、とケイトから聞いて話をしてみたらピーターの下で暮らしたいと言い出す。既にピーターはヴァネッサ・カービー演じる新妻との間に子どもがいたりするのだが…となっていき、寄る辺ない思春期の悩みと急性鬱と診断された彼の悩みと自殺衝動と向き合わされる、っていう感じ。

 ニコラスの大きな悩みの源泉は、どうもニコラスが母と自分を捨てていった、abandonっていう単語が結構聞こえた気がしていますが、そういう絶望感が彼の居場所感っていうのを奪っていって彼は悩んでいく。で、そこに対してピーターっていうのはなんていうんでしょう、毒親っていうようなムーブはかましていない。若干高圧的だったり、古い感じの父親像、外で自分は働くぞって言う感じや、親である自分の権利を子どもに対して主張していたりと、お前それはどうだ?っていう言動はない訳では無いですが、これは一般の範疇。むしろ、彼は明確に前妻との子というポジションであってもニコラスを平等に愛していたし、不躾に命令するよりは話を聴こうとしていた。決して愚かな父親ではなかった。それでも、彼の不在の間にケアを担当することになっちゃったヴァネッサ・カービーだったり、心配して電話してくれるローラ・ダーンだったり、そして何より苦しんでいるニコラス自身も、全然責められるようなことではない。メンタルヘルスの問題に対して、自助や共助で立ち向かおうとした結果が悲劇であり、共助っていうものへの意識っていうんですかね、そこを感じました。思えば(というかこの映画に関しては前作との比較・共通部分を想ってばかりでしたが)、『ファーザー』でも家族の中での共助が限界を迎えて公助というか、入院っていう終わらせ方をしていたし、医療への接続っていうものへの重要性っていうのは結果的に2作続けて示されているように思えます。

2.自分のことなど分からない、ましてや他人は

 先ほどの段では、abandonっていう単語をよく聞いたと述べましたが、同様に印象に残っているのがi don't knowです。ニコラスが一体何を考えているのか、ちっともわからなくて子の心親知らず、っていう映画ではあるんですが、実は最もつらいのはニコラス自身も自分がどうして学校に行きたくないのか、なんでリストカットを繰り返してしまうのか、良く分からない、と表現していることなんじゃないかと思うんです。しっかりと目の前にいる相手のことを理解しようとしても、相手自身が自分が何なのかを理解していないときに、相互理解っていうのはなし得るのか、なんてちょっと飛躍したことを考えつつ、とにかく自分っていうものもわかんないもんだ、というところに落ち着きました。それこそ、『ファーザー』という作品は自分の眼球、耳、そういうの信じていいんか?目の前の世界っていうのが本物だと誰が証明できる?という作品でしたが、同様に本作も自分っていうもんを自分が分かると思うなよ、っていうある種の主観の否定というか、それを客観芸術である映画やこの監督の場合は常にもとにある戯曲っていうメディアで作ることの面白さっていうのを感じました。こーれ家族三部作の次どうすんだ。

 ヒュー・ジャックマンだって、延々話した後に、ああこれじゃあんなに嫌っていた父親の言動と同じことを言ってるじゃないかとようやく「分かる」っていうシーンもありましたね。頑張らないと親に似る。私の好きな言葉です。親に似ちゃうのが嫌なら、家族なんて作らない、なんていうのは後ろ向きでしょうか。