抹茶飲んでからマラカス鳴らす

FC東京サポで鷹党のどうでしょう藩士による映画・アニメを中心とした感想ブログ

ミニシアターの時間「フタリノセカイ」「エル プラネタ」感想

 どうも、抹茶マラカス(@tea_rwB)です。

 今回はミニシアター映画2本立て。文字数足りないからちょうどいいな、とかじゃないよ(コホンコホン)。よく考えたら、アニメ映画も行くし、シネコンも行くけど、ミニシアター映画にも行くって、雑食過ぎないか?

1.フタリノセカイ

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WATCHA3.5点

Filmarks3.6点

 シンプルにいえば、ばんばん時間を飛ばすので、もっと見たい気がする。それもそのはず、10年の恋のお話が83分にまとめられているのだ。

 主人公は、トランス(体は女性、心は男性)とヘテロ女性の恋。LGBTQを扱った恋愛作品ということになると、それ自体が売りになってしまいますが、そういうことを扱いながらも、それ自体は普通のこととして売れるといいな、と思います。実際、本作はまずくっついた二人が知らなった相手のことを知って、離れて、ふとした再会からまた燃え上がるっていうのは、散々やってる王道ではあるわけですよね。

 で、本作、というか、このカップルにおいて特有の課題と社会共通の課題としてそれぞれ立ち向かうものがあって、シンプルにそれはまず「結婚」っていう制度ですよね。社会に共通な問題として、性別を問わず、制度としての結婚っていう手順を踏まないと、ICUに入るようなときに面会できないとか、命の危機とかを前にして無力になってしまうっていう手続き上のものがある。と同時に、このカップルの場合、例え望んでも血の繋がった子どもを作ることは、真也が手術を受けるまでは物理的に不可能。そこでまあ、劇中でも具体的に言及された養子縁組であるとか、そういう手段がある中で、俊平という存在を家族に迎える為に、彼とセックスするという手段での妊娠を選ぶっていうのは、うーん、支持はしないけど、納得は行く描かれ方になっていたと思います。そこで最終的にユイではなく、性自認としては男性であり、手術を自己実現の手段として検討している真也が妊娠する方向で決着をつける、っていうのはもっと支持は出来ないですが、でも本人たちが本当に納得していて家族になりたい、子どもを持ちたい、であればそれでいい、というのも当然だし。監督が当事者ということなので、そういう意味でも創作のための単純な消費ではない、と信じたいので、そこにやいのやいのはいう事はしない、と思います。

 ただ、演出上ちょっと気になったのは、片山友希さんが結局トップを脱がなかったのは気になってしまいました。真也と性行為を出来ない、っていう真也側の事情を描写するために、彼の方を脱がせる、っていう演出をしたんであれば、彼女の側も脱がないと(映さなくていい)シンプルに彼女が真也に対して心を開いていないような印象を持ってしまうかな、というのはあります。まああとは、一旦ユイが結婚した旦那は悪者扱いされるのは可哀想かな、とも思いますが、あれは且つてユイが真也に放った言葉が跳ね返ってくる一種の亡霊としての存在なのでまあセーフ?ぐらいの感じ。金銭の要求でクズとして見せれていますし。

 いやーしかし、難しいのは子どもが産まれて幸せ、が加害性を持つ、っていうこと。どう気を付けていたって、自分だって無自覚でやっちゃう割にこういう状況で言われたと思うと、言われた側はダメージがでかい。でも、それを気遣うにはそういう状況だとカミングアウトされてないといけない。でもカミングアウトの強要なんてもっとできない。でも察せ、は現実的には難しい。だからって、幸せって言うな、はもっと無理だ。だから、みんなで幸せを妬みあうような下限まで行くんじゃなくて、みんなで幸せって言い合って上限に行ける世の中になるといい。

2.エル プラネタ

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WATCHA3.0点

Filmarks3.2点

 主演・監督・脚本を担当したのがアマリア・ウルマン。私は全く知りませんでしたが、32歳の気鋭の現代アーティストで、今回が初監督作ってことです。

 それも納得っていうか、普通の映画の撮り方してたらしないだろうな、みたいな編集(なんかアプリで編集したんか、みたいな転換の仕方したりね)だったり、逆にモノクロだったりとすっごい不思議な画作りでした。

 題材となっているのは、スペイン・ヒホン。スポルティング・ヒホンって今何部にいるんだろう?ぐらいの知識しかない町ですが、そこで暮らす母娘が主人公。まーたこいつらが面倒な感じ。取り敢えず、この作品の主題だとは思いますが、とにかく貧乏。家賃も滞納しているし、途中では水道も止まってしまいました。娘も貧乏で、デザイナーとしての腕はあるようですが、Wi-Fiは隣のを盗んでるし、ニューヨークでの仕事はフライト代が出ないからオファーは来るのに参加できないっていう。

 それでも、この2人は表に出るときはめちゃくちゃ華美に振る舞う。一流のお店のものを買い、クーリングオフぎりぎりで返却。その前にSNSに載せちゃったり、色々ツケで料金を払ったりしている。作り上げられたイメージと、実際の生活とのギャップ、みたいな感じの映画なんですよね。多分、ケン・ローチ的なアプローチを更にアート映画の文脈に乗せてるんですけど、本当にこの親子の様子を見ているだけで、ストーリーと呼べるものはほぼないので、結構そこはしんどいかもしれません。

 ラスト、劇中のラジオでも語られていたお祭りの模様が初めてのカラーで、おそらく実際のニュース映像が用いられていますが、そこでピックアップされたのは失業者たちによる抗議、華美に振る舞っているのは王族だけ。最終的なゴールがスペイン王族への王立制批判みたいなところまで駆け上がっていくとは思ってませんでした。