抹茶飲んでからマラカス鳴らす

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復興の善性が支える民俗話「岬のマヨイガ」感想

 どうも、抹茶マラカス (@tea_rwB)です。

 今回は完成披露試写に当選したおかげでひと月前に鑑賞できました作品の感想。なお、本作は12月公開予定の『フラ・フラダンス』と映画化が既に決まった春アニメ『バクテン!!』と合わせて東北を舞台にした復興作品であり、本作はモロに東日本大震災の被災に関する描写があります。地震津波直接の描写はありませんが、お気を付けください。

岬のマヨイガ オリジナル サウンドトラック

 

WATCHA3.5点

Filmarks3.5点

(以下ネタバレ有)

1.徹底的に被災地に寄り添う善性

 本作はとにかく徹底的に被災地に寄り添う作品。舞台は岩手県大槌町で、17歳のユイ、8歳のひより、おばあさんのキワさんの3人が出会うのも被災地の避難所。街はまだまだ瓦礫が大量に残っている状態です。

 そんなときに、行く当てのないユイとひよりを半ば強引に、迷い込んだ人をもてなしてくれる都市伝説的な家、マヨイガに誘い込んで一緒に暮らし始めるキワさんなんですが、傍から見ると完全に誘拐だし、よく考えなくても、そんなもてなしてくれる昔ばなしなんて、ちょっとネットで検索したら、本当は怖い昔話がヒットするに決まっているわけですね。ところが、そうはならない。それどころか、キワさんも、家も、そして登場する妖怪たち(名称は極めてイマイチだが、ふしぎっと、と呼ばれる)も近所の人たちもみーんなみんな優しくしてくれる。本来的には、そんな作劇はありえない、と一蹴したくなるのですが、本作の大きなテーマとして被災地への寄り添い、ということがあると考えると、こうした優しさは東日本大震災発生時の、日本、いや世界からの連帯の姿勢であり、そこには裏は全くなかったはずです。あの頃、私の観測できるサッカー界隈だけでも、世界中から思い出すだけで泣きそうなぐらいの連帯が示されていました。あくまでそれの映像化。なので、そこに絶対の善性が付与されるのも仕方ないのかな、と思います。

 また、本作の敵であるウミヘビっぽい赤目のバケモノの悪行は、想像しうる悪いものを思い出させたり、幻視させて舞台となっている町から引っ越させよう、というもの。これは被災地のことを忘れようとしている我々に対する警告であり、逆にそこに対して東北じゅうからかけつけるふしぎっとやお地蔵様は、忘れないよ、というメッセージでもありました。遠野に行って紹介されるふしぎっとのシーンは素晴らしかったですね。

2.本当にこれでいいのかを考える

 えー、出てきた全部の昔話や、祭りの準備なんかも全部回収する、なんだったら綺麗すぎるぐらいの吉田玲子の脚本は素晴らしいと思ったんですが、あえて少し気になったところを提起してみたいと思います。

 それは、ひよりは喋れるようになる必要があったのか、です。

 ユイは直接殴られてこそいませんでしたが、DVに近い精神支配を父に受けてしまって逃げ出しており、ひよりは両親が交通事故で死去、引き取ってくれた親戚も震災で喪った為に、発話が困難になってしまった、という状況。どうでもいい(良くない)脱線をすると、ウィキペディアでキャラの名前確認したら、原作では2人ともいなくてユイはDVから逃げてきた主婦から変更されてるし、ひよりは喋れない設定なさそうだし、何よりキワさんは2人を孫だと思い込んでるやばい人だったんですね、すっごい改変や。

 えー、話を戻しますと、ひよりは単身アガメを倒しに魔切を手に挑んだキワさんを助ける為に、ユイと共に遠野から公共交通機関で帰還(そこはなんとかふしぎっとの力を借りて欲しかった)、バスを降りた途端にユイがアガメによって父の幻影を見てどこかに行ってしまいそうになるのを止めるために「ユイお姉ちゃん!」と言葉を発することで過去を振り切る、みたいな展開なんですよ。なんですけど。

 それまでのひよりは、ユイがくれたメモ帳と筆記具で筆談することで色んな人とコミュニケーションを取れているし、ちゃんと顔で会話してたんですよ。何だったら、ユイとは声を介して会話したことない訳で、そのメモ帳がユイとの絆の象徴だった訳で。それを払って声を取り戻すことが、完全なるいいこと、なのかはうーん、自信がない。アガメを弱める為の笛を吹くうえで、発声が必要なら分かるんですが、それ以前にも笛は吹けているので関係ないし。声を出せないままでも、被災していたり、何らかの悲劇にあっている人に対して、「なんで私だけ」と思っているのはあなただけじゃないし、それはあなたのせいじゃない、という本作のメッセージは決して普遍性を損ねない、とも思います。

 あれですかね、サウンド・オブ・メタルを鑑賞前日に見たせいで、治すもの、という概念に疑義を提示しやすい自我なんですかね。