抹茶飲んでからマラカス鳴らす

FC東京サポで鷹党のどうでしょう藩士による映画・アニメを中心とした感想ブログ

自動車という親密空間であり人生「ドライブ・マイ・カー」感想

 どうも、抹茶マラカス (@tea_rwB)です。

 今回はカンヌで脚本賞を受賞。ベルリン、ベネチアと全部で表彰されて、映画界のジョコビッチ状態の濱口竜介監督最新作です。とはいえ、折角試写会で監督とリモートで繋いだのだから、カンヌでどう過ごしたより、作品の中身の話をもっと聞きたかった。

 なお、試写会の特典で、使って良いお写真のデータを頂きました。

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WATCHA4.5点

Filmarks4.6点

(以下ネタバレ有)

1.最高の空間・自動車

 何より強くお伝えしたいのは、自動車、というこの空間が最高だということ。そもそもアバン(それが40分近いのだが)での主人公・家福夫妻を使った車内での会話の様子で、自動車というのがいわゆる公と私の中間的な位置でありつつ、親密空間であることをしっかりと提示している。その上で、運転に一家言あるために他者に運転させることを嫌う家福が渡利に運転を通じて心を許す様子が一撃で観客を納得させ、特にタバコの吸わせ方で両者の関係が明確になっていく演出は実に巧みだ。

 なんだか醜い自分のぶつけあいとなる中盤の山場、岡田将生との後部座席で隣り合う対決シーンでも、そこまでなんでも言ってしまうことを許容する空気にさせてしまう。そして、しかし、その場にいることを許された渡利との距離感がそのことによって更に増大し、ここで岡田将生をホテルに送り届けてからは、家福は助手席に座るようになる。かつての妻の運転のように。

 もうひとつ、運転とは人生だ。決められた、舗装された道である道路を進んでいく。それを自らの手でコントロール、即ちハンドリングすることは実に人生だ。人にハンドルを握らせない家福は、自分の人生も自分でコントロールしており、それを妻に譲っていた時も「一歩間違えば、モラハラだよ」なんて冗談交じりの指摘を受ける程度には運転を支配しようとしている。だが、渡利の運転にひとたび身を任せたことで、これまでとは違う運命に人生が導かれていく。渡利自身も、14歳から母に運転を任され、そして矯正されてきた、自分の人生を自分でハンドリングできていなかった人物だ。そんな彼女が車が故障するまで走って行きついた広島から、再び故郷の北海道まで車を走らせ、そして道なき道を切り開いていく。(監督の話だと、広島での出来事は釜山で撮影予定だったみたいだが、だとしたら最初はどこにたどり着く予定だったのだろう。)この時彼女もまた自分の人生を歩みだせたのだ。長い車中で、互いに自分の人生で人を殺したことを告白し、同じ傷を持つ人物としてやっと2人は向かい合える。空間として自動車を活かしきった、完璧な作品だといえるのでは。

 また、ユンさんの話もしておきたくなる。共に舞台を作っていく仲間であり、韓国手話すら入り混じる(手話があくまで言語のひとつとしてのみ描かれていて、それだけで素晴らしくも感じる)多言語劇の重要なキーパーソンなのだが、彼は同じ車には乗らない。後ろに違う車でついてくるだけだ。だが、彼が同乗したら、次に訪れたのは圧倒的な私の空間である自宅であり、そこで秘密を共有する。舞台を作っていく上で、徐々に徐々に舞台の話自体は本筋から離れていくため、ユンさんの存在はピックアップされなくなっていくが、渡利と家福が距離を詰める前に、渡利に私の顔が存在することを、自分の私空間に連れ込むことで暴露していくとっても重要な存在だ。

2.それでも生きていく

 この作品は間違いなく人間賛歌だ。妻の音の不貞に憤っているのに、関係性の破壊を恐れて何も言えなかった、そして結果的に殺してしまった家福も、土砂崩れが起きた際に母を助けることも、助けを呼ぶこともなく殺してしまった渡利も、それでも残されたものの責任として生きていくことを高らかに歌い上げている。

 また、こうした家福の家庭内での演技的アプローチによって自分を偽っていたことの証左としての緑内障、段々左目が見えなくなっている、という状態。家福は何かみえてないものがある人物だという描写がある訳ですね。

 だから、ラストシーン、奥に向かって進む直線を走っていく赤い車に希望を持つのだ。

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