抹茶飲んでからマラカス鳴らす

FC東京サポで鷹党のどうでしょう藩士による映画・アニメを中心とした感想ブログ

身体性からの解放「ザ・スイッチ」感想

 どうも、抹茶マラカス (@tea_rwB)です。

 

 大渋滞の4/9公開。1月に公開予定が緊急事態宣言で移動した「ザ・スイッチ」の感想です。なーんでこの日にやってきちゃうのか。露骨な13日の金曜日オマージュなのは結構好きでした。あとユニバーサルロゴが今回も遊んでてそれも良き。そこからBGMが入ってるおかげで毎回ビビるブラムハウスのロゴの時も音がなくて大助かりです。

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WATCHA3.5点

Filmarks3.6点 

 (以下ネタバレ有)

 

1.殺し方沢山!

 確認の為に述べておきますが、私は本来的にはホラー映画は超苦手な人間です。勿論、映画の歴史上重要な作品は後学の為にも、と思って『悪魔のいけにえ』とか『呪怨』とか見てますし。ただ、監督の前作『ハッピー・デス・デイ』『ハッピー・デス・デイ2U』は、タイムループというSF的要素が強いと聞いて、それじゃあいかなくちゃと思って参戦、すっかり味を占めた上に入れ替わりという題材をどう料理するのか楽しみすぎて鑑賞した次第。だから、基本的には思ったよりホラー気味でびっくりしたし、お化け屋敷でのジャンプスケア(普通にお化け屋敷がお化け屋敷として仕事をした、スラッシャーの文脈的には外しのところ)のところは心臓が飛び出るぐらいびっくりしたので本当に許さない。でもハッピー・デス・デイの3をやるらしいので、やっぱりそれは見に行きます。

 さて、話を前提条件から進めると、今回のホラー具合がどんな具合か、を懇切丁寧にアバンで説明してくれたのが本作。4人のいかにも!という感じの学生が今回の殺人鬼ブッチャーに殺され、且つ入れ替わりの原因のとなる呪いのナイフも登場させる訳ですが、ここで既に魅力たっぷり。最初の犠牲者はワインボトルを口に突っ込まれて、喉で割るというダイナミックさ。2人目は定番かもしれない気もするトイレの便座アタック。3人目は、あれまびっくり、テニスラケットをパカっと割ってフランケンシュタインスタイルでグサッと。4人目には多少てこずりますが、投げといた槍を後から使ってくるパターンで完成!ここで殺し方のバリエーションを見せるとともに、彼の殺し方がテクニカルでありつつも、基本はパワーでごり押しするタイプだと見せつけてます。

 入れ替わってからは、ヒロイン気取り(且つ分かってる風なのでちょっと我々にもチクりとしてくる)の女の子を冷凍マシーンに閉じ込めちゃってポチっとな(なんであんな危険なものがあんなところにあるんだ!)。むかつく先生は真っ二つにしちゃうし、いわゆるジョック的な、舐めてるアメフト部の男子連中は不意を突いてボトルで首スパーン&チェンそーで股間地獄切り。私は怖いのがダメなだけで、グロいのはある程度はオッケーなので、ここは大変楽しかったですね。

tea-rwb.hatenablog.com

2.なんでもかんでも詰め込んじゃう手際の良さ

 クリストファー・ランドン監督が凄いな、と確認せざるを得ないのが、その手際の良さ。『ハッピー・デス・デイ』でも、タイムループを表現するための1週目の説明の丁寧さには感心しましたが、本作でもかなり丁寧に説明しつつ話を進めることに成功していると言えます。前述の通り、アバンで殺人鬼ブッチャーをざっと説明したうえで、家のシーンと登校シーンだけでほぼ完ぺきにキャラの紹介を済ませることに成功。そっから100分の間に入れ替わりのギミック(呪いの剣の説明)、タイムリミットを説明しつつ、男女入れ替わりのギャップ(ヴィンス・ヴォーンのシャワーシーン大好き)、入れ替わったので殺人鬼に見えちゃうミリーによる説得、ミリーの恋模様、ミリーの家族の再生とここまでぜーんぶやっちゃう。多少詰め込み感があったり、呪いの剣の話はスペイン語の先生に読ませて、はい、設定だから鵜呑みにしてね!とか、そんなにホーム・カミングしたいのか!な感じはありますが、この手のジャンル映画でそこの完璧さは求めちゃいけないとこですし。『君の名は。』だってそんなに厳格なルールなかったですよね(もう記憶が薄らいでいる人の文章)。

 それでいて、ミリーの友人が特に説明することなく同性愛者な上で、彼の家庭でのカミングアウトの程度の話、同性愛であっても当然存在する性暴力(ここはヴィンス・ヴォーン状態でのミリーの車内のキス・シーンがいい比較対象になってる)みたいな文脈すらもしっかり描いているし、ほんと恐ろしい監督やで、ホンマに。

3.入れ替わりによる身体性の解放

 さて、入れ替わりによる男女逆転の面白さっていうのはこの映画のキモだと思うんですが、目をやりたいのが可愛すぎるヴィンス・ヴォーン…ではなく、殺人鬼ブッチャーの宿ったキャスリン・ニュートンの方。勿論、それまでのいじめられっ子的な立場から大男に入ったことで、いかに外見上で男性が有利なのか、であるとか、身体的なパワーの差があるのか、なんていうのを痛感させられるのは当然のものです。

 ただ、同様に殺人鬼ブッチャーの方も、身体性からの解放は見られるよな、というように感じました。入れ替わった当初の初めて人間に乗り移ったエイリアン的な振る舞いはともかくとして、入れ替わって最初の殺人ではいろいろと武器を選んで消火器を持ち上げるけど止める、みたいな話もあるし、やっぱり対先生戦ですよね。普通の格闘だと先生には勝てなかった。勝ったと思って調子に乗ってくれなかったらあそこで終わりな訳で、それを学習したブッチャーは、アバンのようなパワー前提の攻撃から、結構タクティカルな感じの攻撃に変えている。やたらめったら殺さずに機を見るようになっているのもそのためではないでしょうか。ヴィンス・ヴォーン(中身はミリー)と会敵すると、あえて甲高い声で叫ぶ、みたいな手法も彼が男性性からある種解放されているようにも感じて。つまりは、女性エンパワーメントの映画っていうよりは、全人類エンパワーメント型映画だったんだぞ!って話なんですけど、伝わってますかね?(ただ、この解釈も迷うところがあって、ある属性へのエンパワーメントが強いタイプの映画を普遍的な物語と読み込んでしまうことで、エンパワーメントの機能を無効化している、とも考えられるよな、と。)

 そのうえで、だからこそ、最後が余計だったかな、と感じてしまいました。元通りの体になったブッチャーがミリーの家にやってきて襲うが、再生した家族3人で退治する展開はあまりに良く分からないし、その直前で母との対話も済ませているので寓話的な意味も無い。話が終わったタイミングでスパッと終わっている方が切れ味鋭く楽しい作品で終わってたのにな、と思ってしまいます。