抹茶飲んでからマラカス鳴らす

FC東京サポで鷹党のどうでしょう藩士による映画・アニメを中心とした感想ブログ

その歌が思いの触媒に「映画 ギヴン」感想

 どうも、抹茶マラカス (@tea_rwB)です。

 今回は、フジテレビが立ち上げたBLのレーベル、ブルーリンクスからの映画。アニメが春から再放送していたので、それを鑑賞して臨みました。映画が60分尺なので感想も短めですが、ご容赦を。

 どうでもいいですが、ラルケのロゴがカタカナを合成したやつなのを初めて知りました。

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WATCHA3.5点

Filmarks3.5点

 

1.アニメ的な斬新さは特に感じず

 冒頭のバイオリンコンサートの時点で、この作品におけるアニメーションとしてのレベルのジャッジはできたかな、と。やっぱり響け!ユーフォニアムとかには劣ることは否めない。1番初めにぐっと観客を引き込んでほしいところでの作画なので、ここが締まらないとどうにも緊張感がなくなる。実際、一番盛り上がるべきライブシーンでも、演奏陣は3DCGも含めて音楽の楽しさ、躍動感を表現することは出来たとは思うんですけど、観客の表現が。手書きの時は上下にも動きながら観客の表情もあるのに、カメラのピントが演奏側にある時は棒立ちで手を上下するだけの観衆がそこにいて、ああそこまで手が回ってないのかな、と。他のバンドのライブもないし、曲も一曲だけなのでここだけは完璧を期して欲しかったな。

2.純粋な恋愛と、そう呼ぶことの抵抗

 そもそも本作はアニメ時点でメインの2人の恋愛が成就してしまっており、物語的な進みはそこでは生まれないので、残った年長組2人の三角関係の話に終始。そこで繰り広げられる恋愛は、恋と執着と才能への嫉妬が混在した複雑なもので、秋彦が雨月への執着と音楽への嫉妬を切り分けて、春樹と恋が成就する、という流れ。一つ振り切ったことで、人間としても変化して、という感じは別に同性愛作品だろうと、異性愛作品だろうと同じであり、普遍的な恋愛物語がセクシュアリティに左右されることなくスクリーンにかけられるということ自体は素晴らしいと思います。

 ただ、なんていうか少しこの辺の作品に触れているときの違和感が。いわゆるBLというもの、あるいは似て非なる世界、百合にしてもそうなのですが、まだ接し方を完全にわかっていないんだと思うのでご容赦を。

 端的にいって、純粋なものとして捉えすぎてないかな、という違和感なんですよね。一般に、障壁が高ければ高いほどそれが達成された時のカタルシスが大きいものであり、現代においては段々と障壁が低くなっているとはいえ、未だ同性愛に対してのハードルは高いのが現状。ただ、それを乗り越える愛というものの原動力が、より純粋であるから乗り越えられるのではないか、みたいな幻想を感じてしまうのです。秋彦が異性間の性交をしているのも凄く嫌なものとして描写されてしまいますし。一方で、雨月が「セフレ」なんて言葉を発しても、そこに温度とか、生っぽさは感じない。

 多分、これをこの作品で感じてしまうのは、春樹と秋彦の恋愛の触媒となる真冬の存在もあるのでしょう。真冬は音楽的には何も知らない真っ白な状態であり、なんていうのかいわゆる無垢な存在として描かれているように感じます。特に、CACの2次審査に合格したことを共有するハンバーガーショップでは、彼だけ食いカスがついていたり。純粋性や無垢さ、幼さがその正しさとか聖性、天才感を担保する、みたいな感じが輪をかけてしちゃうんですよね。