抹茶飲んでからマラカス鳴らす

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火花散る電流戦争!これがホントの電気、もとい伝記映画「エジソンズ・ゲーム」感想

 どうも、抹茶マラカス (@tea_rwB)です。

 今回は待ちに待った公開となったThe Current War こと、エジソンズ・ゲーム。トロントで公開された時から待ってました。日本最速試写(3月ですよ!)にて鑑賞。コロナで試写会が斃れていく中実施してくれたFan's Voiceさんに感謝!!

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WATCHA3.5点

Filmarks3.4点

(以下ネタバレ有り)

 1.火花散る戦争!エジソンウェスティングハウス

 まあ端的に言って、電球が発明された直後の世界。電気がこれからのエネルギーとして普及していくにあたって、直流による送電を考えたエジソンと、交流による送電を考えたウェスティングハウスwithニコラ・テスラの覇権争いを描いたのが本作。

 ということで、まずは照明描写が楽しい。まずはしっかり何かの晩餐会でろうそくを使っていることを見せ、その上でエジソンがNYに灯りをともす様子で時代の変化を感じさせ、そして電流戦争を決着させるシカゴ万博でのライトアップで未来も明るい!電流戦争の顛末も電球をそれぞれの陣営の色に照らさせて情勢が分かる上に、それは全米にどれだけ電気が普及していっているかの描写でもある。そんな感じで、まずは非常に分かりやすい。

 そんな彼らの対立なんですが、ポスター等でも天才発明家エジソンとカリスマ実業家ウェスティングハウスのビジネスバトル、なんて書かれていますが個人的にはこれに違和感があって。

 そもそもエジソンは発明王ではなく、実業家というのが私の印象。白熱電球も発明したのは彼ではなく、彼はあくまでフィラメントの発明をしただけ。劇中でも登場する蓄音機の発明は素晴らしいですが、電流・送電に関しても今回のように遅れをとっているし、電話の発明とかでも権利をグラハム・ベルから奪おうと躍起になっている。マスコミ戦略と訴訟の巧みな、どちらかと言えば悪い人、ぐらいに思っているので今回の描き方、そしてカンバーバッチの演じ方は非常に気に入りました。

 どうでもいいことですが、移民のニコラ・テスラは分かるとして、ウェスティングハウスマイケル・シャノン以外の主要キャスト、しかもエジソンも含めて3人がイギリス人っていうのは、なんか面白いですね。

 閑話休題。まあそんなこんなで、エジソンは「人を殺すものは作りたくない」などと言いながら、ウェスティングハウスに勝つために電気椅子の設計に携わり、ウェスティングハウスもそれに勝つために手紙を盗ませる。相手に勝つために、悪魔に魂を売った2人はとても良く似ており、その対立はまるで本当に電流が走っているかのような熱さだ。勿論、奥さんへの接し方含めて対照的になるように描いている部分は多いものの、最終的なシーンで名前で呼び合うようにやっぱり彼らは似たものだ。

 そういった点で、真の天才として描かれるニコラ・テスラは一貫してイノセントな存在であり、本当に純粋な天才というものを感じさせるのも素晴らしい。まあ私がテスラを大好きなのは、クリストファー・プリースト『奇術師』(ノーランの「プレステージ」の原作)の完全なる影響下なのだが。

 

2.発明は誰のものか

 結果的に完璧にクロスオーバーしてしまうのが、この映画の経緯だ。

 本作では、送電の方式を巡って争いを続けるわけだが、エジソンは自分の名前をつけることに固執しており、それが権利の所有という概念を大きく意識づけさせる。一方、ウェスティングハウスは「あなたの電気」と言われ「ただの電気だ」と返し、そこに自分を介在させていない。

 さて、この映画の冒頭とラストカットは大きな発電所となったナイアガラの滝での映画撮影のシーンであり、劇中にもエジソンによる発明としての映画、というものを大きく取り上げている。

 だが、映画もまた、エジソンの発明といっていいのか、微妙なものである。劇中で描写されているように、エジソンが発明したのは自分でのぞき込むタイプの万華鏡のような映画、キネマトグラフであり、キネトスコープだ。一方、一応映画の発明はフランスのリュミエール兄弟のものと言われており、エジソンではないことになっている(だから家で一人で見るだけのネトフリ映画などは映画じゃない、みたいなことを映画評論家の松崎健夫さんはぷらすとで仰っていたはず。不安だから自分で確認してね!)。ということは、この映画においてはあくまで映画の起源はエジソンだということなんだろうか。

 そして、この映画の公開に至る経緯が出てくる。この作品は2017年のトロント映画祭に出品されており、プロデューサーがあの、ハーヴェイ・ワインスタインだ。この作品は彼の手によって大きく手が加えられており、監督たちは閉口していたという。そんな中でワインスタインのセクハラが告発され、この映画自体もお蔵入りの危機に。映画の権利も売りに出され、監督の思う編集が全くなされなかった時に手を差し伸べたのが製作総指揮のマーティン・スコセッシ。彼が監督に編集させるようにしたおかげで、ようやく公開されたインターナショナル版が完成したのだ。

 こうした経緯を考えると、映画の造詣に深いスコセッシはエジソンを映画の起源と考えるのか、なんて思うわけだが、もっと大きなテーマが重なってくる。

 つまり、映画は誰のものなのか、ということだ。ハリウッドでは一般に監督よりもプロデューサーのもの、というような意識だと聞くが、エジソン同様に自らの名前を社名に冠していたワインスタインが編集に口をだし、あまつさえ映画を公開の危機に晒している。そして、映画は誰のものか、という問いはあらゆる発明、そして創作物へと一般化される問いでもある。

 勿論、制作者の著作権・特許等は保護されるべきだ。その権利を忘れてはならない。その一方で、劇中のウェスティングハウスのように、一度公開されたものは一般名詞としての存在になり、所有格がつかない。劇場版SHIROBAKOだって、映像研だって、なつぞらだって、そういう理由で大好きだったんだ。だから、そういうスタンスでこれからも接していきたい。