どうも、抹茶マラカス(@tea_rwB)です。
今回はイタリア映画。イタリア映画祭に赴いての予告編で気になったので鑑賞してみましょう、ってなった作品です。主人公はアーサーでしたが、イタリア語だとアルトゥールなのかな?と2023-24シーズンはフィオレンティーナで復活したMFアルトゥールを思い出しながら。
WATCHA3.0点
Filmarks3.1点
(以下ネタバレ有)
色ボケ叔父さんが死んだ婚約者を探す話。墓泥棒しないといけないんだが、副葬品を売り捌くその様子は死者に対する敬意もない。知り合ったイタリアに人の目のためのものではないと言われて、見つけた彫像の頭部を海に捨てる。でも心にはイタリアじゃなくて婚約者がいるから、キスはしたけど出ていってまた墓を探す。最後にその糸を掴んだことから自身も死んだことで見つけた、あるいはその墓に辿り着いたということだとは思うが。うーんなんと身勝手な。
やはりどうしても思うのは、せめてもう少し早く墓泥棒と査定の様子を入れてくれると心が離れる前に見れたのだが、ということ。こっちは墓泥棒の話だと聞いていたのになんか高倉健みたいに出所して電車に乗ってずっとむくれながらおばあちゃんと喋ってる時間が長い。ようやく墓泥棒を始めたら雰囲気的にはかなり良く、買い手側が病院で姿を見せずにやるあたりは、泥棒チームの車に乗ってる姿なんかも相まって『ルパン三世』のような楽しさも少し感じさせてくれた。
個人的には、とにかく頭部を投げたのがいただけない。死はもちろん尊重されるべきではあるが、あれは副葬品ではないと言及された上で、その価値を現代において残し、保存するからこそ死もまた生によって尊いものとなると思うので、ああして仕舞えばあの彫像に纏わる死も生も海の底。結局それってものすごく独善的な振る舞いで全く肯定したくない。だってあんなちゃんとした美術品ですよ、盗品ディーラーの連中も唾棄すべき存在ですが、人の目に晒すものではない、というのも安直というか。副葬品自体にも歴史資料としての重大な価値はありますが、まあ確かに故人を偲ぶためのものであって価値に他者性を求めないのは分かる。でも聖域としての美術品の彫像であればそれは話が違うじゃない。すごく公共財、みたいな発想を否定しているし、その文脈で見ると駅の占拠をする彼女達もまたなんとも言い難く思える。公共という概念を踏み躙った上で、個人のものである過去と財産としての歴史を混同して「忘れられた人たち」の物語として本作を捉えて女性メインのコミュニティ論になるのは、男たちと同様でしかないような、と思ってしまう。歴史を扱う際には『時の面影』ぐらいのリスペクトを欲してしまうのだ。
結局のところ、ロルヴァルケルが継いでいるような系譜の大本にいるフェリーニとかパゾリーニとか、ロッセリーニといった作品たちがそこまで得意じゃないのはあるのだろう。どの監督もしっかり見ているわけではないのだが、それでも今回の作品にも特にその匂いを感じるフェデリコ・フェリーニに関してはかなり苦手意識が強い。まあその辺も含めて、イタリア映画祭で発売されてた書籍も買ったりして勉強する意欲はあるので、今後の自分に期待したいと思います。2度目見た時に、面白いと思えるように。