抹茶飲んでからマラカス鳴らす

FC東京サポで鷹党のどうでしょう藩士による映画・アニメを中心とした感想ブログ

イタリア映画祭2024にて「人生の最初の日」「僕はキャプテン」感想

どうも、抹茶マラカス(@tea_rwB)です。

皆様GWはいかがお過ごしましょうか。私はゆっくりしながらサッカーを見たり、となる中でも重要時、イタリア映画祭に参加して2作品を鑑賞してきたのでその感想になります。東京開催は既に終わっていますが今後の大阪会場での上映、オンラインでの上映があると思うので気に入った作品があればそちらからどうぞ!

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1.人生の最初の日

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WATCHA4.0点

Filmarks4.1点

 私の最も好きな監督の一人と言えるパオロ・ジェノヴェーゼ最新作(他はアレックス・ガーランド、ニール・ブロムカンプ、マシュー・ハイネマン。次点でジェフ・ニコルズやクレイグ・ゾベル)。イタリア映画祭だけになってしまうのは『おとなの事情』の監督だぞ?と憤りつつ、それでも新作が出たらイタリア映画祭でやってはくれることに感謝しつつ、そんなモチベーション。あ、でもこの作品はAmazonのクレジットがあったのでアマプラに来たのかもしれない。

 とにかくノーラン以上に時間に気を使っているというか、演劇的なストレートプレイを遵守していた1,2作目、そして永遠の愛をテーマにしたからこそ時間を弄ってきた前作。そこにおいて、本作はまたもテーマに沿って時間というものをどう描くかをしっかり考えてたんだな、と思える作品でした。

 今回の『人生の最初の日』は自殺した人物が死後の1週間現世に留まって自分を喪った周囲が、世界がどのように進むのかを中止する、という内容。なんでそんなことできるんか、というところはおいといて、案内人としてのトニ・セヴェッロが見えたり見えなかったりする便利設定。子どもを含めた4人がその日は自殺しており、彼らを中心に据えていくのだがその辺の説明はセリフで説明することなくすっ飛ばして初日を過ごさせることで冒頭15分で完璧に導入を済ませる手腕に実に関心。『ザ・プレイス』でも見せた設定導入のうまさです。その上で、自殺の瞬間を振り返るような状況であっても回想表現を使うことなく、マルゲリータ・ブイ演じる警官の娘が死んだことを振り返る場面でもバスケットボールの音だけを響かせるにとどめたり、逆にこれからの未来でどんな人と過ごすのかを示すのにも映画館で映像を見るという手法で現在視点を絶対に崩さない。あくまでグループセラピーのような状態を継続しつつ、今ここ、をずらしはしない。

 そこまで現在時制にこだわっているからこそ、7日目を終えた時の決断までが描かれるのかと思わせての死の瞬間に時間が戻るある種のタイムループで決断が示される終盤が鮮やかというか。クライマックスとしてのドラマ性を担保していると共に、人生っていうものは不可逆であり、時間経過は一方向でしかない、というところと死んだことをやり直せる、という逆方向への動きがマッチしているというか。だからこそ人生の一回性、監督の重要視してきたような時間の不可逆性が際立つというか。

 こういう内容だと、どうしても「人生生きているだけで丸儲け」的なマインドを結論として、死にたい理由に現代性を反映させただけのお涙頂戴的なゴールになりそうなものですが、今回はそこにもしっかり釘を刺していて。常連であるヴァレリオ・マスタンドレア演じるナポレオーネが他の3人に対して死ぬ理由があってうらやましい、私は日々が憂鬱なだけと述べたり、結局彼は死を選択したりする中でそれを否定せずそれすらも選択として寄り添っているような印象があります。勿論、その上でナポレオーネは案内人の座に就くことになるので生を肯定する話でもあるのですが、そこが前面に押し出されすぎていない後味で。非常に印象的なメッセージとしては、死後の日常を見せることで、あらゆる人物が代替可能であることを示しつつ、その上で誰もが平等に尊重され、誰もが平等に生きていく権利を持つのだ、と言えるもので現代的!今の映画だ!となりました。

 もともと、パオロ・ジェノヴェーゼ監督においては時制だけでなく場所も固定した1シチュエーションだったのが前作から映画的なロケーションや撮影にも果敢に挑戦しだしている印象で、本作もイタリアの街を車が走ったり、ドローンで撮影したような空撮だったり、夜景から明かりを消してみたりと、映画的であろうとする瞬間を意識的に確保しようとしているように思えました。

2.僕はキャプテン

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WATCHA4.5点

WATCHA4.3点

 アカデミー賞の国際長編部門に選ばれたイタリア代表作品であり、マッテオ・ガッローネ最新作。国内配給がガッローネなのにつかないとイタリア映画祭の運営さんが嘆き続けていますが、それもそのはず。描かれるのはガッローネの印象とは全く異なるアフリカ地獄上京物語。セネガルダカールに暮らすムサとセイドゥの2人はこっそりヨーロッパに行って歌で成り上がろうとしていた。お母さんにこっそりセイドゥは打ち明けてみるけど烈火のごとく怒られ、そしてこっそり状況。マリ、ニジェールリビアとアフリカ国内を渡っていくが、密入国業者に偽造パスポート業者にお金をぼったくられ、リビアではついに警察に捕まり二人は離れ離れに。最終的にリビアトリポリで合流した二人だが、ムサが銃撃されており治療のためにイタリアに密航を企てるも代金が足りず。1人分の渡航料金で2人が行くには移民船をセイドゥ自らが操縦することが条件になる、というアフリカからのヨーロッパ移民が経験しそうな地獄めぐり。イタリアも例にもれず移民受け入れに関する問題が色々噴出していて右派も力をつけている、みたいなことを聞いた記憶はあるにはありますが、それにしたってこういう映画、ましてセネガル舞台となると明らかにフランス映画がしてきた仕事内容。特にNetflix映画『アトランティックス』はアフリカからの移民を描いたカンヌグランプリ作品であり、監督マティ・ディオップはセネガル系フランス人だったはず。旧宗主国とか、そういう関係もあるはずで、それをイタリア映画で、それもローマ生まれのイタリア人であるマッテオ・ガッローネが描くとは。勿論、当事者的な立ち位置からの語りを奪っているのでは?という視点は持つべきだが、結果的に母にもムサにもその場で都合のいい感じで話を合わせていたり、見通しの甘さがとんでもないレベルであったセイドゥが「僕はキャプテンだ、誰も死なせない」と移民船の船長として高らかに宣言する人間的成長と地獄的な世界観が『ほんとうのピノッキオ』と酷似していることは間違いなく、ファンタジーを嚙まさなくても、いや嚙ます余裕のないほど世界は切迫しているのかもしれない。もっとも、ピノッキオと違ってというべきか、同様にと言うべきか、「難民」という言葉とはまた異なる定義をされそうな移民ではあることはどうしてもちらつく。これ見てイタリア国内で移民を受け付けよう!とはならぬというか、むしろ排斥に賛同する人が増えそうな気すらさせる。

 それにしたってサハラ砂漠や地中海など、これまで「街」の規模で美しく風景を捉えてきていたガッローネがこの規模のロケをすると凄いものである。DUNEかよ、と思う砂漠っぷりであった。彼らが情報や交通、医療や福祉にアクセスできない様が見通しの甘さに繋がっており、公共が公共であることの意味を強く知らしめる作品でもあっただろう。

 あと、主演2人は名前がそのままだったので演技未経験どころかドキュメンタリーに近い作品の作り方をしたのかもしれない。この辺の情報はイタリア映画祭のカタログを買うか、日本公開が決まればそこで日本語の情報が色々入ってくるでしょうな

 

 さて、イタリア映画祭のまとめとしてだが。大前提としてこうした企画を通していただいて大感謝なんですが、オンライン配信できる作品とできない作品があるはず。どれができてどれができないかこのラインナップの発表はいつですか?と質問したんですが梨の礫。繰り返される「これで最後ですよ」煽りなど、運営姿勢に多少疑問符が残るのは事実。パオロ・ジェノヴェーゼに『おとなの事情』の日本リメイクはどうだったか問われてこう答えました!の中身も公式アカウントとしての振る舞いでは無い気がします。そして何より、チケットのUIマジで酷いぞ。作品の素晴らしさだけでは動員がかからず、次年度以降の開催も危ぶまれる。それはわかる。分かった上でそれでもなんとかしてくれないでしょうか。今年はアトロクで野村さんの紹介も無かったし…(それもまた番組側の事情もあるし、大阪アジアンとかも毎年では無かったけども)