抹茶飲んでからマラカス鳴らす

FC東京サポで鷹党のどうでしょう藩士による映画・アニメを中心とした感想ブログ

移植「哀れなるものたち」感想

 どうも、抹茶マラカス(@tea_rwB)です。

 今回はアカデミー賞有力選手。何故かエマ・ストーンを掴んで離さないヨルゴス・ランティモス先生です。

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WATCHA3.0点

Filmarks3.1点

(以下ネタバレあり)

1.異色・脳移植

 ランティモスさん、毎回毎回社会の当たり前に対して割と疑問を投げてきたり、あと人が人に対して呪っていくの好きだなーと思ってましたが、割と今回もそんな感じ。割と肌感覚として『バービー』に近い映画。幼子の脳を成人女性に移植していわゆる「常識」に対して疑問を提示していくどころか、それをぶち壊していくような感じ。男社会そのものの具現化であるようなマーク・ラファロを遂にぶっ壊した上で、もっと地獄な男優位の権化みたいな(というよりもっと旧制的な君主制っぽさ)の元夫(でいいのか表記も分からないが)との対決でビシッとやっていく。完全に殺してしまうのではなく、屈服させてドッグ(あるいはチョッグ)の脳を移植してしまうのはなんつーか変なことしますね、って感じ。男社会や君主制をぶっ壊すというよりも、旧来的な価値観の人とも対話したうえで自己を確立するっていう。まあ私の良くいう好きな論調で名づけが一種の支配みたいな話でもありますわな。そういう意味では名前によって人格を支配しようとする男どもに対して、タトゥー彫るわ、性的な自由を獲得するわで身体的なところで自分を自分で支配しようとしているベラって感じ。ちょっと歪でもったいなく感じるのは、そんなベラも結局はウィレム・デフォーのことをGODと呼び続けて創造神と被創造物という関係性からは抜け出せなかったとこですかね。あー、そこは神に逆らえないんだっていう。むしろ出ていった上で戻っている辺り神の寛容さ、みたいな方にも考えちゃう。

 ベラの成長というか、その段階はめっちゃ身に覚えがある感じ。フロイトピアジェか忘れちゃったのが非常に悔しいのですが(調べろよ)、段々活動に適応していき、思考が徐々に論理的になっていき自己中心性を脱却していく。最終的には抽象的な話ができるようになるよー、みたいなのがあって。最初は見ての通りだし、性行為に対しても序盤はどんどん要求して相手のことを考えていない。そこから関心が社会性に移行したんだけど、やっぱり自己中心性が抜けてないからお金あげちゃうで問題になり、そこから徐々に自己中心性を脱却してよりよい社会を目指すようになる。びっくりするぐらい心理学の領域というか、そこに忠実。真面目かよ。

 こうした多段階を見事に演じたエマ・ストーンはシンプルに凄いとは思います。特に幼子をインストールした序盤は姿勢から何から真っ当な成人に見えないというか、肉体を持て余した感じが凄いなと。どんどん普通の人間になっていくんでどんどん普通のエマ・ストーンになっていくんですが。

2.NO SHOCK 脳移植

 この駄洒落を思いついたことをまずは謝罪したい。

 その上で、いやあ正直がっかりですね。本当にランティモスさんに求めていないところばっかり出てきた感じで、それが映像面に顕著。脳移植の説得力が必要なのは分かりますけど、あんな世界にする必要ありますか???スチームパンクを雑にフューチャーっぽくしたような映像のダサさとチープさに、ちょっとウェス・アンダーソンみを感じる美術とか街づくりははっきり邪魔。ただでさえ、ランティモスの持ち味である魚眼レンズやら、カメラの動きだったりに加えてピンホール(以前もあったか覚えてないだけ)みたいな誰視点だよ映像や、白黒だったりと画面が五月蠅いのに世界の作り方までズレていると集中できない。つまんないコントです、はっきり言って。これまでのランティモスは現代劇的な感じだったり、前作『女王陛下のお気に入り』だって宮廷ものなので世界が我々と近くてノイズにならなかったというか、より話に近づいていけたのに。そんな世界だからか、最近のウェス・アンダーソン同様に緊張感の欠片もない展開に思えてしまい、ランティモスが持っている次に何が起こるのか戦々恐々するような不穏さが無かったです。バリー・コーガンがパスタ喰っている時みたいなムードを求めてしまっているこっちが悪いんだとは思いますが。『ビバリウム』→『NOCEBO/ノセボ』のロルカン・フィネガンのように、美術が全然違っても飲み込めることはあるので自分が固執しているわけではないと信じたいが。

 うーん、『バービー』といいこの手の映画に続けて低評価をつけたくないのだが(バービーはギャグがマジでつまらなかっただけではあると言い訳しておく)