抹茶飲んでからマラカス鳴らす

FC東京サポで鷹党のどうでしょう藩士による映画・アニメを中心とした感想ブログ

自分勝手「逃げきれた夢」感想

 どうも、抹茶マラカス(@tea_rwB)です。

 今回は来週16日が勝負と思われている6月の、しかし個人的に最重要作品。スパイダーバースと同格、二ノ宮隆太郎監督最新作。

f:id:tea_rwB:20230612200746j:image

WATCHA4.5点

Filmarks4.5点

(以下ネタバレ有)

1.高すぎる福岡精度

 本作の主演は、定時制高校の教頭、光石研。高校卒業と同時に上京したらしいんですが、ばっちり本作の舞台となる北九州の人間でございます。福岡県人にはつい甘くなる危険がある訳ですが、光石さんは全焼してしまった北九の旦過市場あたりの映画館、小倉昭和館光石研シートを設置するなど、地元愛・映画愛にも溢れるとなるともうたまらん訳で。現在を再建を目指す小倉昭和館さんへの想いを自分にも感じつつ、でも半端な福岡描写なら怒りますよ?なーんて凄んでみて臨んだんです。北九、筑豊の方なんて親戚がいるから行ったよね程度なのに。対東京で考えると一致団結するんだけど、北九と博多って文化圏全然違いますからね。

 話が逸れましたね。いやさ、もう天晴ですよ。この光石研の「そうね」の発音が完璧。ナチュラルどころの騒ぎではない。どっからどう見ても北九のおっちゃんになっている。顔だけ店に行ったら、上がってけと言われて押し問答30分よ、なーんて光石さんがお父さんに語り掛けてるところとかありましたけど、全く同じ体験を(我が家の場合は長崎ですが)親戚の家周りとかでやってますもんね。そんなこんなで、完全に福岡解像度、九州男児解像度がえげつないことになっている訳ですが、もうそれ以外のところでもボンボンでてきますよ。出てるなぁ、となる松重さんと飲んでる時のソンさんという台湾人店員にしちゃうナチュラルなセクハラというか、老いた人間が若い人間にしちゃう感じと、おじさんが女性にしちゃう感じ、でもそれを悪だと認識していない感じが絶妙すぎる。ただ、光石さんは教育の現場に携わっていることもあって、社会通念上やっちゃいけないことへの意識、ハラスメントへの解像度は多分その辺の九州男児がそのまま成長しちゃったおじさんよりは高い。それでも娘と新入りにはああやってかましちゃう。教頭先生として接していたらそうはしないだろうに。いやーこの塩梅。これ九州出身以外の人が見たらどう思うラインの振る舞いなんだろう。そうそう、世代間的な意味で言えば松重さん(彼も福岡出身!)は「しゃーしい」って言うんですけど、これは結構もうお年寄りしか言っていない気のするラインの方言で。高校生とか若い世代ほどやっぱり方言が緩くなっている。この辺のグラデーションも見事。このグラデーションカンヌに届くかなぁ。光石さん、松重さん、それから吉本実憂さんもですね。北九組にしっかりヒアリングしてやってんだろうな、と思ったら光石さんの体験からあてがきみたいなことしてるらしいですね。納得。なんだったら、エンドロールにもう一人いた光石姓、本当に光石さんのお父さんなんですね。じゃあもう光石研the movieじゃあないですか。

2.終わりが見えたから

 さて、この映画、病でちょっと忘却症状が出るようになった光石さんが人生を見つめなおす映画なんですが、すっごく不思議。彼の生活リズムが定時制高校に合わせているから、妻は仕事に行ってから起きるし、普通科の授業中に定食を食べ学校に赴く。

 そのリズムを見せながら支払いを忘れ、「病気なんだ、忘れるんよ」の一言で去っていく。ここからの作業全てにおいて、病が原因で瑕疵が起きるのでは無いか、相談事を共有できない大事件が起こるんじゃ無いかとスリリングになるのだが、普通の業務が続く。教頭の見回りが徘徊に見える。普通の日常をずーっと追っているだけなのにこんなに戦々恐々とさせられ、そしてこれをずっと気にしていると案外できるじゃんってなるので当然詐病じゃないよね?と最後に平賀に問われる。観客は告知を受けてるところを見ているから本当っぽいとは分かっているんだけど、光石さんは誰にも病のことを言わない。むしろ、この映画の開始時点で「おかしいぞ?」みたいな自覚症状が出るような難病モノとは異なるアプローチをとっており、既に映画の開始時点で彼は人生を振り返り、彼の言葉で言えば「好かれよう」「感謝されよう」としだしている、人生を見つめなおしているのを、こっちが感じるしかないのだ。「え、死ぬの?」なんて違和感を表明する娘に、そうなんだ、父さん死ぬんだ、とは言わない。

 そして松重豊と過去を懐かしんで、自分勝手といわれる。もう光石さんは自分の病を知って人生を見直し、もう一度関係性を構築しようとしているのだが、病を隠していることを察されてそう言われる。そう、自分勝手なんだ。九州人っていうのは見栄っ張りで、自分勝手で。でもいいじゃんか、自分の人生なんだから。自分勝手のせめぎ合いよ。弱さを見せれない、という九州人の業みたいなものを見せた上で、今度は弱さを見せに行ってしまう都合のよさ。そういう諸々含めたズルさっていうのを自分勝手っていう言葉で収めているような気がしました。

 そしてそれは、光石父もそうだ。押し黙ってコミュニケーションとは言えないそれが呈示される序盤。ある種の反面教師としての親子関係なのかな、って思って見ているのだが終盤のもう一度の会話で少し様相が変わってくる。この父もまた、学校の先生のモノマネをして好かれようとした過去があったことがわかる。ことここに至って、彼もまた「自分勝手」だったんだな、なんて思う。もうちょっと、私も父に優しくなろうかな。それが自分勝手だけど。