抹茶飲んでからマラカス鳴らす

FC東京サポで鷹党のどうでしょう藩士による映画・アニメを中心とした感想ブログ

You should talk We should talk「ウーマン・トーキング 私たちの選択」感想

 どうも、抹茶マラカス(@tea_rwB)です。

 もう6月です梅雨です。To you。

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WOMEN TALKING

WATCHA3.5点

Filmarks3.6点

(以下ネタバレ有)

1.ポストMe Tooという言葉

 今回の映画は、本当にしゃべっている。ずーっとしゃべっている。トーキング。

  • 子どもの安全を確保する権利
  • 自分の信念を貫く権利
  • 考える権利

 この権利があるんだ、と言うことをもう一回ちゃんと言うためだけの話でもある。だから徹底的に話すことにフォーカスした。10分で概要を話し、投票し、そして話し合いにすぐ入る。この村を去るのか、残って闘うのか、何も言わず赦すのか。この3択。そこから善とは何か、赦すって何なのか。とことん話し合う。当然、性的暴行の加害・被害の対立軸でやる話で、こう団結とか、一つになること、一様であることを求められてしまいがちだとは思うんです。でも、当たり前ですが、女性たちも一様ではない。っていうか、そもそも投票の時点で割れてるんだから代表者を出して話し合ってもまとまりようがない。でもそこを対話でまとめるんです。そういう話なんです。今回はあいつらの加害には触れない。それが最悪なのは間違いない。あいつらがみんなしてやっていて、それでいて悪魔だ、霊的な何かだ、それとも気を引きたい虚言だなんて言われて酷い。ありえない。でもそこの話はしない。今回の話は、被害に寄り添う話ではなく、尊厳の問題と、未来の問題。この映画の考え方の上でなら、犯人がクズとかそういうことは問題ではない。

 外から見ていると、神の名の下に女性を傷つけるような連中がいて、赦す、とはなんなのか。そいつらこそ神の敵ではないのか。なんでそいつらを赦さないと女性たちが天国に行けないのか。それは、誤った3択というか、考える前提が間違っているんじゃないか。そんなことを思ってしまいます。

 で、うーん、って考えるのは、これはフェミニズムなんです。明確にフェミニズム。でも、先に行ったのか、ここまで後退してやり直さないといけなくなってるのか。それがどうにも分からない。男性に対してリベンジをしていくタイプの作品が単なる反撃でその先がない、だからその先を作ろう、みたいなポストMeTooっていう大きい流れは分かります。分かりますけど、そうやって加害してきた男連中の時代が一体何年続いて、そこからほんの少しミラーリングしたカウンターの映画が出来ただけでなんかうんざりされているように思えて。勝手に先に行こうとしているような、そんな気配を感じてしまうんです。他方、この映画が描いているのは、女性は考えることが出来る、女性は理論的に話すことが出来る、女性は信念がある、そういうこと。いやまだそんな当たり前の前提、みたいなことを映画で描かないといけないのか?と思う反面で、いやミソジニー的な分断が進んでこのラインからやり直さないとな、という感覚もあって。じゃあポストMe Tooどころか、Me Tooの前提からやらないと男ども分かってねぇよな?っていう映画でもあるような、うんぬん。まあこの辺は、殴るべき相手には殴ることも必要だという感覚があるからかもしれません。

 

 あ、途中で「2010年の国勢調査です!?!?!?」とか言い出して、マジかよ!?となります。今作の舞台はメノナイト、というキリスト教のコミュニティで19世紀的な生活をするもの、ということらしい。宗教的な話が絡んでくると、前提の間違った3択だろ、みたいな主張のところにも少しこう考えるいろいろが出てくるな、とも思いました。