抹茶飲んでからマラカス鳴らす

FC東京サポで鷹党のどうでしょう藩士による映画・アニメを中心とした感想ブログ

続編の意義はあるか「STAND BY ME ドラえもん2」感想

 どうも、抹茶マラカス (@tea_rwB)です。

 今回は山崎貴監督によるドラ泣き続編。なんていうか、思っている以上にお客さんが入っていない印象がありますが、さてさて内容は如何に…。

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WATCHA3.0点

Filmarsk3.2点

 1.そもそも論。2は必要だったのか

 本作は冒頭でいきなり大人のび太結婚前夜のパーティから帰宅し、ドラえもんと現在のび太が元の時代に帰ろうとする、前作のシーンにつながるようなところから始まります。すなわち、本作は前作と設定を共有していることになります。

 そのうえで、前作同様の技術力を発揮しているスタジオ白組の3DCGアニメーションには見事の一言。定期的に作品を仕上げては、アニメーション技術としては外れることは全くない専門家集団として素晴らしい実力を今回も発揮していると思います。あとはこの技術を生かせる最高のお話と巡り合うことを期待したいのですが…

 閑話休題。えー、前回と設定を共有しているとなると非常に大きな問題が出て参ります。前作は「さようならドラえもん」と「帰ってきたドラえもん」という、普通であれば号泣必至、ドラ泣き必至の名作をぶち込んできていますが、それに伴って現在時制ののび太はひと段落成長してしまったことになります。クレヨンしんちゃんの劇場版のように、ドラえもんも劇場版は別時空の話とすることで宇宙に大冒険したり、感涙の別れを経ても翌年にはリセットしてゼロから物語を構築できる、即ち1本の作品でいくら成長しても、なかったことにできるという形をとっていました。そして、その成長の中でも最も強い刺激である「さようならドラえもん」をやったにも関わらず、その続きをする、ということは既に現在のび太には課題を与えられないことになり、彼の成長を物語のメインにはおけなくなります。

 更には、「さようならしずかちゃん」というしずかちゃんの為に嫌われようとするのび太のエピソードも消化してしまったため、しずかちゃんの為を思って身を引く行為は、もはやただの繰り返しであり、時間の浪費。重ねて、前作でドラえもんと大人のび太は交わらず、それはドラえもんを子ども期の象徴として捉え、すでに大人のび太も子ども時代からの卒業をしていることを示していました。(まあ本作でもそこは言い訳されますが)

 果たして、そこまでの状況で「おばあちゃんの思い出」を中心に据えた続編が必要だったのか疑問でなりません。事実、本作の課題は大人のび太から提示され、彼が自己解決して終わり、そこに頭とお尻で思い出したように「おばあちゃんの思い出」がセットされ、ついでに「ぼくの生まれた日」が挿入される。やっぱり寄せ集め感が残ってしまったと、言わざるを得ません。

2.その他雑感

 正直前項は見る前の時点で考えていたことの答え合わせでしかないんですが、本作にはそれ以上に特に思うところもなかったので、細かいことを訥々と。

 まず、大人のび太と子どものび太が入れ替わること自体は普通にいいアイデアだったと思うのですが、入れ替わった時に声まで入れ替わったのは個人的には好みではありません。魂が入れ替わっても、声帯は身体に付随するもので、大人のび太の入った子どものび太は子どものび太の声で話すはず。その結果、妻夫木聡ジャイアンとかと絡んでも違和感をキャラたちは感じない、分かるんですけど、個人的に嫌いです。

 あとは、前作同様の課題ですけど、しずかちゃんが単なる聖女で、トロフィーヒロインのままな気がします。まあドラえもんという作品の性質上多少はしょうがないところはあるとは思いますが、それでもね。

 あとは、どうぞ、泣いてください、っていう回想と音楽は下品だと思います。これも前作に引き続いて。

 まあこれだけブーブー言ってますが、近くの席にいた子どもたちは笑っていたので、それでいいいんじゃないですか。