抹茶飲んでからマラカス鳴らす

FC東京サポで鷹党のどうでしょう藩士による映画・アニメを中心とした感想ブログ

生の戦場をドキュメンタリーで。「彼らは生きていた」「娘は戦場で生まれた」感想

 どうも、抹茶マラカス (@tea_rwB)です。

 今回は戦争ドキュメンタリーを2本。昨年は「蹴る」、一昨年は「ラッカは静かに虐殺されている」と、ドキュメンタリー映画は見る数が少なくとも上位に食い込んできます。今年は既に「さよならテレビ」も見ているのでドキュメンタリー多めの年なんですかね。

 扱うのは「彼らは生きていた」「娘は戦場で生まれた」の2本になります。これ2本立てIMAXとかやったら、観客死ぬよ。

(以下ネタバレ有り)

1.彼らは生きていた

ゼイ・シャル・ノット・グロウ・オールド(字幕版)

 

WATCHA4.5点

Filmarks4.3点

 ロード・オブ・ザ・リングピーター・ジャクソン監督が贈る第一次世界大戦のドキュメンタリー。というか、記録映画に近い。RotRは長い…以外の感想がすぐに浮かばなかったが、今作は100分を切っていて見やすい、というかこれ以上は許してくれ!という地獄が描かれる。

 基本的に当時の映像を白黒のまま、証言音声や効果音は後からつける形で進んでいく。だが、戦地ではカラーリングが施され、却って現実のものと受け止めやすくなり、その様子は淡々しているが、決して目を離すことができない。

 開戦直後の様子は、入隊を募るポスターが次々と映され、19歳から入隊可能にもかかわらず、15歳ぐらいから入隊した男たちの証言、そしてそれを喜んで受け入れているイギリス軍が描かれる。キャップでも入隊できたぐらいザルだ。

 そして彼らは過酷な(とはいえ、フルメタル・ジャケットとか、愛と青春の旅立ち程ではないが)訓練を経て戦場に向っていく。戦場の様子は受け取り手に配慮して本当にしんどい死体は映さないが、平然と死体は映るし、音声の証言ではフツーに体が前半分抉れたとか、貫通したからセーフ理論とか、意味の分からないことを言っている。だが、それが現実だ。

 やはりここで比較対象に出されるのはほぼ同じ舞台のフィクション「1917 命をかけた伝令」だ。あの作品はあの作品でフィクションとしての面白さ、技術の素晴らしさが結集している良い映画だ。虚構を信じるものとして、絶賛はしていないが、否定することは決してない。だが、こと戦争においては、フィクションや虚構はあっさりと現実に負ける。生々しい戦場の死体、一瞬の紅茶休憩、横穴を掘って眠る兵士、何もない無人地帯。こういうものの生の映像を見せられると、1917はどうしてもよくできた虚構、ゲーム感がますます強くなる。大画面で戦争体験とはよく言ったものだが、「ダンケルク」だってこの映画の前では綺麗事に見える。ちょっとした希望やカメラを向けられた際の笑顔があるからこそ、悲劇性が現実味を帯びるのだ。

tea-rwb.hatenablog.com

 あまりに悲惨な突撃も終え、ついに終戦。そこで分かる事実は、物理的な怪我よりも心に重くのしかかるダメージだ。捕虜になったドイツ人は概していい奴で、イギリス軍兵士と打ち解ける。銃を向け合った彼らは決して恨み合っていたのではなく、何なら戦争をしたくない、という思いで一致していた。常に体をさらすのは下っ端だ。

 そんな思いでやっとのことで帰った中で、今度は戦火を逃れた市井の人との断絶が待ち受ける。復員者お断りの求人、死を伝えに行った先で憎んでくる戦友の母、戦争の話をしたがらない家族、そして極めつけの台詞「今までどこ行ってたんだ?」。亡くなったのはこっそり入隊した若者が多かった、その上でのこの仕打ちはあまりにもだ。私たちはあまりにも簡単に目を背けたいものから目をそらし、無かったことにするのが上手すぎる。

 2.娘は戦場で生まれた

For Sama (Frontline) [DVD]

 

WATCHA5.0点

FIlmarks4.9点

 「彼らは生きていた」で十分に弱った心に凄絶な追い打ちをかけてくる傑作だった。

 舞台となるのは、シリア・アレッポ。ISの拠点として知られる悲劇の街でもある。シリアやISを巡る鑑賞済み戦争ドキュメンタリーはエグさが本作に匹敵する「ラッカは静かに虐殺されている」や劇映画ではあるが「プライベート・ウォー」「バハールの涙」なんかが挙げられるが、そのどれよりも本作は心に来る。

tea-rwb.hatenablog.com

tea-rwb.hatenablog.com

tea-rwb.hatenablog.com

 2012年、いわゆるアラブの春アレッポ大の大学生たちがアサド政権に対して反旗を翻したところから時系列は始まり、アレッポ陥落後、どこかの国でクリスマスツリーと共に家族で笑う姿で終幕を迎える。これだけを抜き出せば、ああ生きていて良かったね、と思ってしまうが決してそうではない。

 アレッポから人々が逃げていき、空爆が苛烈を極める中、最後の病院として踏ん張った夫ハムザと最後まで記録し続けることを選んだ妻ワアド。そしてカメラに映った惨たらしい多くの死傷者。いってみれば、たまたま戦地になってしまった街のある家族のホームビデオを見ているだけなのだ。それなのに、そこには圧倒的な「死」と、輝ける「生」が同居している。「死」に溢れた病院、アレッポにとって、生まれた時から戦場だった彼らの子ども、サマの存在は希望であり、象徴だ。アサド政権に反抗する錦の御旗であり、自分たちの理念のアイコンなのだ。だから、陥落のわずか5か月前に1度トルコに出ているのにサマを連れて戻ってしまう。だから、アレッポが陥落する際に正義の、理念の敗北に涙した人たちもサマの、自分たちの存命で安心できる。そこに倫理的正しさは欠落しているかもしれない。

 そこに、親としての正しさはないかもしれない。でも、それでももっと大きな信念の下に、サマは日常でもある戦場に戻ってこなくてはならなかった。

 空爆の音にびくともしないサマと、驚き泣いてしまう他の子ども達。どうか、安全地帯にいる私たちは、このような悲劇が起きないこと、こんな映画が公開されなくて済む世界を願い、現実を注視し続けるしかないです…。

 こうした戦争映画はとにかく時分と関係ないと思わないように、定期的に鑑賞するようにしたいですね。見逃している「ラジオ・コバニ」「アレッポ 最後の男たち」も必ず見たいと思います。