抹茶飲んでからマラカス鳴らす

FC東京サポで鷹党のどうでしょう藩士による映画・アニメを中心とした感想ブログ

格式「国宝」感想

 どうも、抹茶マラカス(@tea_rwB)です。

 映画を見てからすぐに感想は書けなかったです。仕事終わりに3時間ですから。ただ、人間怠惰なものですっかり書く気にならず気づいたら日曜日になりました。思い出しながら書きます。別にその期間この映画のこと考えていたわけでも無いので別に塾生はされていないだろう。

 絶対松竹だと思っていたら東宝だった。

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WATCHA4.0点

Filmarks3.8点

(以下ネタバレ有)

 

 まあ、単純な感想を言うのであれば凄い映画だな、だと思います。吉沢亮および横浜流星による、若手の歌舞伎役者として舞台に立つことを許される立ち居振る舞いから、吉沢亮は素人にしてはいい、から人間国宝としての存在感までのふり幅を3時間の中で見せることを要求される訳で、それに完全に応えて見せていることは間違いない。歌舞伎を演じるシーンなんて、顔を見せなかったりすればうまくスタントダブルを使いながら出来るんでしょうが、歌舞伎を映画館で見るときのような引きのショットで長くカメラを回していくことで誤魔化すことを許さず、歌舞伎としての強度もしっかり要求していくことが達成されているのは凄いな、と。そういう撮影もそうだし、そこに合わせる音楽的なものもとてもよく、音楽っていうか音響が良かった印象で、歌舞伎の舞台を普段見ているわけではない人間でも興味と緊張感を持続させる静音と、渡辺謙横浜流星が舞台の上で死ぬのだ、というその瞬間の一瞬の音は見事。

 じゃあ好きかと言われると、うーんって感じなのがすっごい難しいところ。こんなブログやらFilmarksのようなアプリで映画を採点しているとたまにぶち当たる問題なのですが、好きな映画に高得点をつけるのは当たり前です、主観ですから。ですが、中途半端に点数の妥当性を求めているのか知らんのですが、客観的な視座としての採点を考えてない、と言えばウソになる訳で。本作のような、少なくとも出来はきちんとしている、演技も間違いない、でもどこか好みじゃない、というものに対してどの程度の点数をつければいいんだろうという困惑が正直に言ってある。

 さあ、もうちょっと好みじゃない、を掘ってみようではないか。まず見終わって思ったのは「短い」という言葉だった。3時間もある映画を見終わった際の「短い」は大満足、という意味だと思ってしまうかもしれないが、本作の場合は完全に尺が足りていない、という意味での「短い」だ。立花喜久雄が花井東一郎となって、花井半弥とコンビになっていくまで、俊坊の出奔と帰還&喜久雄の出奔、再会と曽根崎心中。ざっくりこの3部立てと理解はしているが、アバンの永瀬正敏の死にざま、素人を鍛えていくところまでは丁寧にやっていたがゆえに、半弥が出奔してからは〇年後が頻出するようになり、大河ドラマのように一生を描こうとしたら仕方ないのは理解するのだが、というところが目立って仕方ない。喜久雄が出ていく原因になる森七菜のところなんて本当にぽっと出のやつとワンナイトラブして追い出されたようにしか見えなくて、何かを見逃したようにしか感じられなかった。いや、多分見逃しているんだろう。そうに違いない。

 その上で、もっと気になるというか、期待外れであったのはやはり導入で喜久雄がヤクザの子であることを提示したことから何も繋がらなかったことだろう。喜久雄自身には何も悪いことはないと思わせながら、曽我兄弟を引用しながら親の敵討ちにいくし、背中にカップルで入れ墨をばっこり入れる決断をしているわけで、そこで彼の中にある暴力性を否定することはできないだろう。その罪を償おうとも、その過去が襲ってくること自体は想像に容易く、ましてそれが身体を使った表現であり、国からの補助金も流れ込むであろう文化事業である歌舞伎の世界ともなれば、喜久雄の存在自体が危険なのは言うまでもない。それなのに、襲名後の凋落、帰ってきた半弥との対比のように週刊誌報道でされた極道報道については、このタイミングでこれが出て本人が喰らっている味が分からないレベルである。そこのリスクヘッジ何も考えてないの?渡辺謙は押し切ってそうだったが、寺島しのぶも襲名に反対する理由としてそこを挙げるべきだったし、本人の自覚としてもそこは覚悟しておくべきだろう。血筋と芸の対立の話をしたいのであれば、喜久雄の血の話はややこしくなるので脚本段階でオミットするなどしてほしかった。結局、血と芸の話も喜久雄が戻ってきてからは主題から退いて、舞台の上で死ぬ話になってしまうので、テーマがブレている。ブレているのに中盤で膨らませているのが気に入らない。

 また、三浦貴大の存在もまた非常に勿体ない。彼の上司として登場する嶋田久作三浦貴大は、関西の大きな興行主として登場する。そもそも、渡辺謙永瀬正敏演じるヤクザの下を訪れたのも、興行を行うにあたって暴力団が重要な要素であるためである。興行と暴力団の関連というのは日本の中では絶対に語り落せないところであり、暴対法の施行されている現在、絶対に触れたくはないところでもあるはずだが、そこに踏み込んだ以上は、喜久雄のキャラ付け以上のものが語られることを期待する導入であるし、そこに暴力団の要素が無くなっても、興行主と演者との間の権力関係、興行に伴う接待関係など、多くの矢印を孕んでいる存在であり、そこだけでも描くに値するはず。そしてその当人である三浦貴大が当初は、所詮は血の世界でいたい目を見るのはあんたと喜久雄に言ってのけたり、歌舞伎の芸術性を理解せず見世物としての話しかしていなかったりする。彼の視点の変化が、歌舞伎が何故特別であるのか、という話の深みにもなるはずだし、あと本当に申し訳ないけど三浦貴大という俳優の話になって「血」の話で外側を感じないのは不可能だ。だったら、そこにもっと何か語るべきことを設けて欲しかったのだ。

 最後に、興行主がもっと描かれて欲しかった理由、どうしてそう思ったかを自己に更に問い詰めたい。この映画が何故こうも格式が高そうに見える、ちゃんとしているように見えるのか、の根源について考え始めたからだろう。即ち、映画自体の格式なのか、題材が歌舞伎であるが故の格式なのか。もしそこに格式があった時、その格式って何なのか。歴史があるものを扱えばその格式は生まれるのか、生まれるのであれば、それは「芸能」としては不適格なのかもしれないような、めっちゃ面倒なことを延々考えてしまっていた。ついでに言えば、この映画に格式を感じてしまったのも寺島しのぶという本物、田中泯というほぼ本物を連れてきたからじゃね?とも思う。本物を連れてくれば格式になるならドキュメンタリー映画が最強になるけども、と。