どうも、抹茶マラカス(@tea_rwB)です。
今回は第96回アカデミー賞(97じゃないよ)でノミネートされていたドキュメンタリー映画。日本公開はされないんだなぁと思っていたので嬉しい限りです。
WATCHA4.0点
Filmarks4.1点
(以下ネタバレあり)
本作は非常に珍しい手法で撮られた作品。ある女性とその4人の娘についてのドキュメンタリー映画であり、いわゆる回想的なシーンを撮るのだが、そのうち年上の2人の姉ラフマとゴフランは撮影におらず、女優が代役として演じるという。また、母オルファに関しても本人が再現するのがしんどい時のために代役の女優を準備して臨む体制。15時17分、パリ行きでは実際に経験した人がフィクションとして役者に当たったり、あるいは劇中でも言われてるのは『タイタニック』のローズだね、なんてのもある。フィクションとドキュメンタリー、架空と現実が入り乱れる複雑怪奇な作品で、演じるということについて何か得られる気配を感じていた。
だが、実際に得られたのは自分への激し目な怒りというか情けなさである。いかに自分が偏見に塗れて生きているのかというか、狭い世界の発想で生きているのか、と失望した。ずばり、不在の理由である。ラフマとゴフランの不在は、完全に死だと思い込み、なんなら性的被害に関連していたり、この作品も女性たちの連帯、みたいなゴールなんだと思ってしまっていた。ハナからこの映画をそういう風にラベルを貼って関心を持ってしまっていたのだろう、無意識かもしれないが。
話が進むに従って、オルファの恋人が娘たちに行った性的虐待や、ヒジャブの被り方・染髪や脱毛など自分がどうファッションをするかについての論争になり、やはりそういう方向に舵を切ってきて、ある種のこう鎮魂というか、死んでしまった2人の姉を悼み、その不在を受け止めるグリーフケアなんだろうと思ってしまった。
だが、ラフマとゴフランのいなくなった理由は全く違う。全然存命。ISへと馳せ参じてしまったのだ。確かに、ヒジャブの被り方についての議論の段階で、ラフマやゴフランは被りたい、という主張であり、革命政権の前は外でつけることを禁じられていたと憤慨はしていた。だが、それより前にあった髪を染め、脱毛したことにオルファが怒っていたことの裏返しというか、家庭内での主導権の奪い合いぐらいの認識だった。オルファの自分の初夜の話なんかを踏まえて、自分の体は誰の所有物で、どうありたいかの決定権は自分が決める…という議論は勿論直近での『聖なるイチジクの種』なんかのイラン社会でのデモが念頭にあるから、自分のことは自分で決める、が正解だと思っているし、この話もその流れに乗りかける。だが、そこでイスラムの神が現れる。顔を隠さないと天国に行けない、という娘たちからの問いに、それでは働けない、と返す母。そこに現世のことしか考えてないのか、と返す娘。イスラム国を信奉して出奔した2人はリビアで捕まり禁錮16年だそうだ。ことここにいたって、4姉妹と母の話の始まりがオルファの母の話から始まったことに意味があることに気付かされ、「頑張らないと親に似る」の話であったことにやっと私は気づいて。自分の中にISの側につく、という選択肢が浮かんでもいない、なんだったらもう終わった話として処理していなかったか?という疑義まで突きつけられた。なんと情けないことか。
結局、『タイタニック』でも『15時17分、パリ行き』でもなく『アクト・オブ・キリング』の類似作品だったと言える本作は、彼女たちの現在地からの語りとあの時こう思っていたの発露で姉妹4人が2-2で断絶している歴史を振り返り、怒りに寄り添い、悲しみをサポートする作品だった。確かにグリーフケアではあったが、想定したものとはまるで異なるし、気付けば女優が演じていることを完全に忘れて4姉妹として釘付けになっていたのである。そして、こうした営みを映画という媒体にとらえることの意味としては『ウーマン・トーキング』に近い印象を受けた。