抹茶飲んでからマラカス鳴らす

FC東京サポで鷹党のどうでしょう藩士による映画・アニメを中心とした感想ブログ

家「ジョイランド わたしの願い」感想

 どうも、抹茶マラカス(@tea_rwB)です。

 今回はパキスタン映画。

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WATCHA3.5点

Filmarks3.6点

(以下ネタバレ有)

 パキスタン映画。多分初めてだし、揉めに揉めているという感覚の隣国インドと比較すると、どういう国なのか、文化や生活はそこまで知らないというのが正直なところ。勿論、そこは強固なイスラーム社会が聳え立っているだろうことは想像に難くないわけですが、いやはや今回の映画はしっかりそこを描くぞ、という気合を感じるものでした。実際、そういうところを描いたからでしょう、アジアの映画にありがちな上映禁止処分を受けるものの、なんとか撤回させて上映したようです。

 メインにあるのは強固な家父長制と男性優位の社会。主人公のハイダルは大家族の中で無職、姪や甥と遊ぶ毎日。何をするにも「まずは父に」「父の話を」とお父さん優先。3世代同居の中で、すごく家族的なことと神的な視点を重視している生活様式。そんな中でハイダルは職を得るのですが、それがすこしエキゾチックな雰囲気のダンサーであり、家族にそれは言えない。そもそもパキスタンにおける劇場の幕間で踊るダンサー、という立ち位置がどういうものかは分からないが、、劇場の支配人だよ、と嘘をついてもなおお父さんは近所に言うなよ、っていっているので娯楽産業に従事することは決して褒められたものではないのだろう。日本中世における伝統芸能の萌芽の時期とかに近いのかな、という印象。で、クソなのがその報告をした食卓で、それまでハイダルが担っていた家事が機能しなくなると指摘されるとハイダルの妻・ムムターズに仕事を辞めさせて家庭に入るように鶴の一声で決まってしまう。鶴の一声とは言うが、まあ家族全員一致であり、自己実現のための仕事という概念すらなさそうである。これは終わってからラストに分かることだが、結婚の斡旋を受けた段階でハイダルはムムターズに会いに行き、結婚の決定を相手に委ね、仕事も望むのであれば続けていいと明言していた。でも、そうはならなかった。画面のスタンダードサイズも含めて、パキスタン社会の閉塞感を感じる。

 夫婦・家族の問題をメインで描いていくのかな、と思うと話は思わぬ方向に転がる。ハイダルがダンサーのビバに恋をしてしまった。ビバは男性の体でありながら女性として生きたいと願っており、女性としてダンサーをしている。イスラーム社会でLGBTの存在という生きづらさは正直想像を絶するものがあり、その地獄っぷりは彼女に接する連中の男女問わない見下し方、ダンサーの同僚連中のアウティングなんかからもうつらい。娯楽産業として成立していたり、男たちは性的に見ることを凄く当然に思っているくせに、女性や性的少数者に対してその体をどう扱うか、どう生きるかに対してあまりに強権的。異文化を尊重するべきだし、進歩主義的に考えてしまってはいけないのだが、それでも目の前にいる人を大切にしてくれ、という要求を思ってはいけないのだろうか、と考えてしまう。もっとも、このような映画が生まれている以上、パキスタン国内でもそういう考えは少しづつ生まれているのだとも思う。まあ他所の国に文句言っているレベルにある国でもないが。

 話が少し社会認識全体にズレてしまったが、結局のところそういう話に終始してしまう映画だったように思えるのも事実だ。最終的にムムターズは逃げ出したい気持ちと折り合いが取れないまま命を自ら断ってしまう。そのことをお父さんが、ハイダルの兄が非難し、ハイダルは怒ることしか出来ず、ヌチが全部を代弁してくれる。この家がみんなで彼女を殺したんだ。実際、彼女も自分で分かっているようにムムターズに職を辞するように求めてもいた。勿論この家=この国=この社会、という提起ではあるのだが、この一連のムムターズの想いにはそこまでハイダルの浮気周りの話が絡んでいないという印象は拭えないし、例えば踊るという行為の身体性をもうちょっと魅せてくれたりしたら嬉しいなっていうのはある。『裸足になって』とかみたいな。