どうも、抹茶マラカス(@tea_rwB)です。
今回は完成披露試写で拝見した作品。ベルリン国際映画祭のエンカウンターズ部門に正式出品された作品です。What is エンカウンター部門??海外の映画祭の部門名、謎が多い。
WATCHA4.5点
Filmakrs4.5点
(以下ネタバレ有)
1.無言にして雄弁
さて、聾唖のボクサーが主人公の映画だ。『ドライブ・マイ・カー』でも『コーダ あいのうた』でも何でもいい。映画好きであれば、この手の作品が増えてきていることは明確に感じているだろう。これは手話が言語としてしっかり認知されてきたことの証左では無かろうか、と思っている。ただの境遇の格差とか、そういう感じではなく、多様な言語のひとつとして認知されて、多様性を重んじる社会にしていこう、という流れに包含することが出来ているのでは、と。
そういった視点でこの映画を捉えている時、この映画は本当に雄弁で、うるさいぐらいだ。この映画は実に多言語的で、ビートフルなのだ。
この映画の中ではどうしたってセリフは少ない。主演の岸井ゆきのは「はい」と何回か喋るぐらいしか言葉を発していないし、ボクシング映画でもあるので、運動中は喋れない。マウスピースなめんな。その上で、聾唖なのだから音のない世界を感じさせる演出が必要になり、実際劇伴は無い。だが、この映画には静けさは似合わない。ジムに通えば、ミットを打ち、ステップを踏んで刻まれるそのリズムだけで実に軽快だ。そして一度外に出れば、そこにはうるさすぎるぐらいの世間がそこにある。世界はこんなにも五月蠅いのか。彼女は聞こえないから気付いていないだけで、世界は騒がしく、そして悪意に満ちている。
そしてまた、実に雄弁なのが目線だ。前述の通り喋らない役柄ではあるが、しかし彼女が立ち向かわざるを得ない多くの出来事、ジムの閉鎖や自身のやりがい、家族の反対というか、心配。それらに相対して悩む彼女の視線の演技は実に素晴らしい。その上で、そこに合わせてくるジムの会長を演じる三浦友和や、その妻である仙道敦子、勿論スパーリング相手でもあるトレーナーの松浦慎一郎、三浦誠己両名の視線の演技がまた素晴らしい。時に厳しく、時に優しく、諭し、寄り添うその視線。ミット打ちが上手くいった時のあのスポーツの独特なハイになる感じ。決して語らずとも、感情豊かでたまらない。
肉体言語や音声言語だけではなく、まだ言語は登場する。岸井ゆきのの弟は音楽を演奏しているし、その交際相手(で良かったよね?)はどうやらダンサーだったように見えた。無論、手話もだ。メインでもありそうな扱いなのに言及を忘れていた。今回の映画においては、手話の使われ方も一様ではなく、手話の話者同士の会話の場面では字幕が登場せず、また弟との手話会話では画面が暗転して中央に縦書きの字幕が出てくる。誰と会話しているかで字幕の存在やフォントが変化し、文字言語としても多様性を提示している。
2.社会の中にいるケイコ
さて、この映画は実に多様な論点を見せてくれていると思うが、やはり個人的には記録と公という側面が着目したく思えた。
この映画はコロナ禍の映画としてマスクと聾者っていう観点の提示もしているが、それにしても世界はこんなにも刺々しいのかとはっとさせられる。その中でも、特にむき出しに迫ってくるように思えたのが「公」という存在だ。劇中、警察官による職務質問のシーンがあるが、彼らはまるで対話の可能性を示そうとはしていない。切り取られた風景では、電車・高速道路・消防車・パトカーなどがけたたましい音を立てて人々を脅しているようにすら思える。障がいを抱える人々への無理解さ、公権力の暴力性などが表現されているように思えたのは気のせいだろうか。
こうした暴力性を強く感じるのは、ケイコがこの実社会の延長線上に確かに存在していると感じられるからだろう。16mmで撮影された東京の下町は、引いた景色が多く2020年代の東京の生活史の記録としても有用に思えるほど、風景自体が主役にも思える。ぼくらの暮らしたコロナ禍の社会と同じところに生きている、特別なフィクションの物語の主人公では無い存在としての実存がこの映画で写真や字幕といった、作品然とさせる要素があっても、現実の延長線上に思わせることに成功している。
そして記録することだ。これは映画というメディアというものへの言及っていうことも考えさせられるが、劇中は記録媒体が非常に多く出てくる。ケイコはノートを記して日記にしており、それが仙道敦子によって読み上げられる。三浦友和は試合映像を見返し、そしてケイコの母もジムの閉鎖の際にも写真が撮られる。この映画が東京を記録したように、誰かが記録されて、伝えられることで存在の強度が上がっていく。