どうも、抹茶マラカスです。
今回はアカデミー賞戦線まっしぐら。AI使用が多少問題にはなりましたが、すっかり『エミリア・ペレス』あたりの話でかき消えた感じもします。主演いくんじゃないかなぁ。
あと予告とかスタッフロールのこの横に流れていくデザイン。素晴らしい。
WATCHA4.0点
Filmarks4.2点
(以下ネタバレ有)
本作は序章、到着の謎(1947-1952)、美の核芯(1953-1980)、エピローグの4章構成。一応戦後から1980年までを描いていることにはなっているが、1958年ぐらいから一気に飛ぶのでまあ殆ど10年ぐらいだけを描いた作品。前情報ではホロコーストから逃れた建築家の大河ドラマみたいな話ときいていたので驚いたが、いやはやそこに意味があった。ハンガリーで名うての建築家がホロコーストに巻き込まれて妻と離れ離れ、それがドラマチックなのにそれは描かない。アメリカにやってきたら、誰もが新参者。港湾で力仕事をさせられるのだ。いとこのアティラを頼ってアメリカに来たラースロー・トート。これはユダヤ人でユダヤ教徒の彼がアメリカにやってきて余所者として参画していくということになる。
ガイ・ピアース演じるヴァン・ビューレン。彼によって構想されたセンターはコミュニティに新参者が全体の一部として参加できるように作る。アメリカとは元来そうであり、そしてユダヤ人を受け入れた戦後もそうであり、これからもそうであるはず、というアメリカはこうであり、こうであってほしいという話だった。オープニングでラースローがようやく広がる空の元に出て、逆さに映る自由の女神。建築物とアメリカの話。分かりやすい。舞台となるペンシルベニア州がアメリカの独立を話し合う場であり、そこにはあらゆる自由が保障されていたはずなのに、そこには皆が移民だったはずなのに。そう、歴史を描いた作品だ。この映画は過去を描き、今を描き、未来を描いた。すべてを超越し、時代を超えて存在するものとしての建築物。その時代時代で人々がその建物に意味を与える。エピローグ、ビエンナーレのあの場でジョーフィアから語られたのは、彼が自分の給料からだって出す、と語った3mの天井削減を許さない話。それは、ラースロー、そしてエルジェーベトとジョーフィアが苦しめられたナチの収容所のイメージから来ていたのだった。勿論、それはジョーフィアのシオニズム史観から出たものかもしれないけれど、でも一応公式の場で本人同席の下、回顧録も書いたっぽい前提で言うならそれは真実だろう。そうじゃなくても、彼女は、あるいはその時代の人々はあの建築をそうやって解釈している。ちょうど『室町無頼』を見たばかりだから思うのかもしれないが、義政が庭のために市民に労苦を課して岩を運ばせたシーンと予算内に収めたい大理石の運ぶためのシーンってやってることは同じなのに意味は全く違うわけで。存在と解釈、っていうのはすごく面白いし、っていうかそれこそ表現の本質的な悩みでもあるよなぁと。
そうやってビエンナーレで語られていたもう一つは、旅路では無く、到達地が大切である、ということだ。勿論、それはここまで歩んできた歴史の果ての現在を問い続けるものだ。
さて、アメリカもまた、ラースローを拒んだ地であり、ガイ・ピアースはアメリカそのものだ。だから、ホームレス。だから、アメリカを告発する映画なんだけど、そのゴールとしてエルサレム、イスラエル、ユダヤ賛美の映画に近づき過ぎているように見えて、それはすっごいモニョモニョしたくなる。アメリカと同じように、イスラエルだって建築や宗教を利用しているという批判はあたるし、それを理解してる作り方。結局ラースロー自身も復讐者として現場を制圧していく、怒鳴ることでしか進んでいかないのだもの。
ただ、たとえ『ノー・アザー・ランド』が長編ドキュメンタリーを取ろうとも、これが10部門ノミネートの時点でパレスチナに寄り添うタイミングと思ってないんだな、ってなっちゃう。それこそ、この映画はあのヴァン・ビューレン・センターなんだろう。あそこはどういう場所かよく分からずに賛美しちゃってる。ブラッディ・コーベット自身はイスラエルを多分賛美してないけど、オスカー側はそう受け取ってるように見える。麻薬もそういう感じに見える。体は叫んでいる。痛い。骨粗鬆症で中身はカラカラかもしれない。その歪みを訴えている。でもそれをアヘンで誤魔化し誤魔化ししていたら、それはもう健康ではない。アメリカもそうで。と思ってしまう程度にはアメリカにおけるイスラエル人気を諦観の念で見ている。
建築家は産業なのか芸術家なのか、というよくあるパターンの問いに関して言えば、いや彼は復讐者だった。BRUTALIST。生コン打ちっぱなし、みたいなのをブルータリズムとはいうらしく、それがもとになっていると紹介されているが、いや『ブルータル・ジャスティス』を知っている僕らとしてはそこに残忍な、凄惨な、みたいな意味があることを知ってはいる。そういう映画なのかもしれない。この検証もまた、歴史とこれからに任せようじゃないか。