抹茶飲んでからマラカス鳴らす

FC東京サポで鷹党のどうでしょう藩士による映画・アニメを中心とした感想ブログ

ミーム「ドリーム・シナリオ」感想

 どうも、抹茶マラカス(@tea_rwB)です。

 今回はA24だけどハピネットじゃないんだー。A24とハピネットの関係もよくわからんが、A24が製作しているのか、配給だけなのかもわからなくなっていく。

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WATCHA3.5点

Filmakrs3.5点

(以下ネタバレ有)

 

 あちらでロボットが犬の夢を見るのであれば、こちらでは人類はニコラス・ケイジの夢を見る。一言で言えばそういう映画でさあ。何の変哲もないおじさんニコラス・ケイジが色んな人の夢に出て来る。というワンアイデアで走り出しているようにも思えるのだが、ニコラス・ケイジというチョイスの時点でこのアイデアに奥行きをもたらしているように思えるし、このポール・マシューズという男は夢に対して何も思い通りにすることなく勝手に夢の中のポールが独り歩きしてしまうのがまた独自性があって良かった。

 基本的にはミーム学、というような言葉も出てきていたしネットミームとかそういう話だとは思う。ある人物やキャラクターの顔や形だけを切り取って、そこに別の意味が付与されて本人のあずかり知らない、また制御できないところにまで拡散されて別の意味になってしまう。言語の意味が変化して「正しい意味はこうだ」と主張しようも、現代の用法が違うのだから仕方ない、という流れとも似ている。当然、この場合ポールを始めとするミーム化されてしまった人に対して責められるものは何もなく、しかも何故か彼らに対しての人権配慮は免責されるかのような空気が現代のネット空間には充満している。いい意味で使っているからいいだろ、と思っている人だっているはずだが、このネット社会に生きて他人との対話に画像を用いた時点で人格権や著作権、色んなものを侵害している可能性は極めて高いのが現実だ。そういう社会全体を風刺しているような作品でもあるのだが、これが夢というのが非常に難しい。客観的な証明が不可能なうえで、でも確かに個人の経験や記憶として蓄積されるものであり、それがきっかけでポールに対してトラウマを抱えてしまった大学生たちのことを悪く言うこともまた出来ない。安易にスター扱いしておいて、という批判は一定の説得力はあるが、自分を殺した瞬間を見てしまった相手の授業を黙って受けろ、食卓を共にしろ、というのは例えポールに非が無くても仕方ない。

 ただ、個人的にこの作品のメインの置き所はそこじゃないかもしれないと思いつつ。クリストファー・ボルグリ監督は『シック・オブ・マイセルフ』でも本作と同様に承認欲求を描きながらも、アートとか芸術家を特権階級から引き摺り下ろすような作品を撮った。その点で言えば、本作はニコラス・ケイジという俳優を用いて中年男性の特権性をはく奪したと言えるだろう。ポール・マシューズという男は確かに冒頭で大学院生時代のアリの研究のアイデアを盗まれたと主張していたことが導入されるように、普通の人と自認している承認欲求を求めまくっているタイプだ。彼自身は自分が大学教授として積み重ねてきた知見を認められたい、というものがメインではあるが、おそらくはその辺のヤツより賢いと思っているだろうし、多分ちゃんと人権感覚とかも持っている。これまで色んな映画がむき出しにしてきた有害な男性性からは「逃げきれていた」というタイプ。っていうか多分私もそう。でもそんな彼のことも監督は引き摺り下ろした。彼は何もしていなくても加害性があると思われ、そして結局加害は事故的であれ、してしまった。普通の男性であること自体に加害性がもうあるのだ。聡くなくてはならない。もうこの時代に生きる以上は、聡くないことは加害性があるのだ。人畜無害も無害ではないのだ。

 事態が収束するのも突然であり、そこに登場するのは他人の夢にダイブするイノベーションだ。むしろ意図的に夢に侵入するのだからやっていることは『インセプション』の産業スパイのような行為なのにブランディング、広告として処理すればこういうムードになるという皮肉をこめながら、自分の夢を見なかったジャネットの下にトーキング・ヘッズの衣装でヒーローとして現れる夢を叶えるポール。もしかしたら、この絵面のために導入したものかもしれないが、しかしこの「ノリオ」なる発明品の存在はネット空間どころか、個人の脳内までも公共空間にしていってしまうというこれからの未来の先読みだとしたら色々と考えることは増えるなぁと示唆的ではあった。そこを考えることへの知的好奇心自体はとても惹きつけられるが、映画としてはポールが最大に転落してから自己をどう立て直すのか、事態をどう打開するのか、のあたりを見たかったので話の飛躍の仕方が全然思ってもみない方向で少し残念だったのは事実ではある。

 さて、色んな人に自分が出てくる夢を聞いてそれが映像化している手法はすっごい好きだったし、夢映画でありながら、今起きているのが夢か現実かをしっかり示す手法は好感が持てる(緊迫させておいて夢でした!を連発されると萎えるからね)のだが、このエヨーユメ!な映画にTBSラジオ「アフター6ジャンクション2」が企画を打っていないのはなんということなのでしょうか。そして春とヒコーキによるバキ童チャンネルという存在がミーム化された人の主体性を取り戻す場として機能しているのだから、そこともコラボしておけばよいのに!!と思いました。