どうも、抹茶マラカス (@tea_rwB)です。
今回はかなりリアル目にアニメの制作現場を描いたアニメーション、SHIROBAKOの劇場版。それでも現場の光の部分しか描いてない、って聞くとマジでお金落とす方法もっと教えて…。
そして…
※重大発表!
— 物語るカメ@井中カエル・映画、アニメ垢 (@monogatarukame) 2020年2月24日
3月7日(土曜)の19時より新番組をやります!
タイトルは『#アニなら!』
はい、つまり #おれなら のアニメ版ですね
カメのアカウントから配信、YouTubeにもアップ予定です!
3月7日はデジモン、shirobako、ドラえもんなどを扱う予定です!
Twitterでは告知しましたが、ブログでもご報告。
上記の放送に参加させていただきます。本作に関しても色々話すことになると思うので、興味ある方は是非ご視聴ください!
WATCHA4.0点
Filmarks4.2点
(以下ネタバレあり)
1. 夢で飯は食えない
映画はアニメシリーズのおさらいを通して、実際のアニメの制作手順を説明するミニ劇場から始まり、その後宮森の車のシーンへと移行します。
聞こえてくるのは多分文化放送。高橋李依の声だ!とすぐ思ったら正解っぽかった。そのラジオでは予算が無いからゲストを呼べない、なんて笑い話をしており、宮森の車は信号発信でエンストし、テレビシリーズで描かれたような軽快感は無く、ムサニの、あるいは映し鏡の現在のアニメ現場の現状を示す。
元々フリーで仕事していて付き合いのあっただけのアニメーターは仕方ないですが、絵麻の独立、太郎たちの退社、姿の見えない矢野さん、社長も交代している。第三少女飛行隊の成功にも関わらず、ムサニはすっかり下請けに逆戻り。結構なショッキングな幕開け。
でも、これってしょうがないと思うんですよね。劇中で、前社長が仰るように夢や好きじゃなくて、アニメで何を伝えたいのかが宮森に無かった時点でこうなることは決まっていたかもしれません。夢で飯が食えないのは古今東西変わらない。ずかちゃんも頑張ってバイトしてたじゃないですか。
とはいえ、アニメ制作の闇の部分をそれとなくぶち込んでいたのも事実。まずは分かりやすいところだと、ダビング終了後の打ち上げ。太郎たちは弁当のウナギを食べずに日高屋に。勿論、日高屋で打ち上げするのが貧困層だとかいう気はありませんが、突貫工事の劇場版が公開より3週間早く上がったらもう少し豪華でもいいものです。事実、アニメではかなりの規模のパーティでした。
そしてその後訪れるラストの作り直し。納期までに最低限の出来になっていて完成と銘打った。そこからより良いものにするために、クリエイターが納得するところまで頑張る。これって凄い美談ですけど、言ってみればやりがい搾取に近い訳で。こうしたクリエイターの方々の思いは大変嬉しいし、より良いものを求めているのは観客ですけど、どうか末端にまでお金が行き渡ってほしいと痛切に思います(昨日ランウェイが笑って、のお金が原因で辛い話を見たせい)
2.社会学で考えるSHIROBAKO
ただ、ここで少し違った観点を持ち出してみたい。個人的に、このSHIROBAKOという作品の持つ特殊性の部分が頭の片隅にあったため非常に楽観して見ていられたのだ。
その特殊性とは、この作品はアニメを扱ったアニメであるが、問題をしっかりと表出させるため、ただ映画を扱った映画などとは違う自己物語、あるいは当事者研究に近いパターンで語られる、ということだ。
少し説明をしておこう。当事者研究とは、本来的には何らかの生きづらさ(例えば障害や精神疾患、不登校なども含む)を抱える方が、自己物語的なアプローチ(ナラティブ・アプローチ)あるいは、対話的なアプローチで自身の生きづらさを研究するものだ。
本作において、メインの登場人物たちは様々な課題を抱えていく。宮森は後述するのでおいておくが、タイヤさん(完全に名前をこれで覚えてしまった)は自分の出来ることとやりたいことの差、自分のできることと他人の出来ることの差を痛感し、絵麻は小笠原さんの原画の動きを殺したと言われてしまう。ずかちゃんも、声優としての理想の自分と現状のギャップに苦しんでいるし、あれ、りーちゃんって何か悩んでたっけか?まあいいや。
彼女たちの悩みのうち、前者の2人は子どもたちに絵を教える、という出来事を通じて問題解決の糸口をつかみ、ずかちゃんはアニメでも登場していたメンターとの対話によって挑戦の意思を鮮明にする。なんか書いているうちに普通な気もしてきたが、彼女たちは内省的なアプローチではなく、他者との関係性においてその課題を見出している。
それを一歩進めたのがみゃーもりではないだろうか。
ここで、実はテレビ版でもしっくり来ていなかったミムジーとロロの話に移りたい。
彼らはみゃーもりが苦境に陥ったり、観客に説明する際に登場するナレーターであり、心内表現であり、代弁者だが、みゃーもりのイマジナリーという感じもせず、存在が劇中のリアリティラインから浮いていたように感じていた。しかし、他のメンバーが他者との関係性において課題解決を経たことと対比して考えると、みゃーもりは非常に内省的にミムジーとロロを対話させることで課題解決に至っている。
この時、取られている手法が非常に当事者研究、あるいはナラティブ・アプローチに近いように感じた。これらは社会学の分野においても専門知を用いることなる行わる研究手法であり、課題解決を目指すのではなく、問題を外在化し、ラベリングすることで研究を行い、研究に生きた、あるいは生きなかった自分を新たな研究対象とすることで自己が肯定されていく作用があるといえる。いわば、自分を客観視して研究対象とすることで自然に自分との距離が生まれる訳だ。ミムジーとロロの存在をその研究過程と考えると、個人的には得心がいく。
また、みゃーもりが決意を新たにするミュージカルシーン。この場においてもミムジーとロロは参加している。ここでは、ナラティブ・アプローチを含んだ演劇療法、心理劇に近いことが行われているように感じ、言ってみればみゃーもりがある種のロールを演じてミュージカルを演じることで課題解決を図っているような、そんな印象である。(あ、「勝手にふるえてろ」がモロにそうじゃん、今さら気づく。)
とまあ、彼女たちの課題解決が他者及び内在する他者的なものによる認知療法に近い形で行われているとすれば、これはこの作品の持つアニメ業界をアニメで描くという再帰性にも合致するのではないだろうか。
その理解の感じで行くと、本作は課題解決に対して非常に自己的な語りが多く、そしてそれがほぼ1つの問いに対して1つの語りで解決している。5人に関して言えば、極めて当事者性の高い描き方にされており、それは他のスタッフ、例えば監督や原画の遠藤なんかにもあてはまるだろう。
だから、多少窮屈ではあったものの、アニメ制作に携わるすべての人物が主役足り得る描き方をしていて、非常にテンポ良く進むことが全く問題にならないのだ。勿論、絵麻の悩んだ納豆の作画は見たかったし、アニメでの原作者との対決と違って契約の矛盾を突く宮森も論理的納得であって、爽快感は無い。そういう分かりやすい形のカタルシスを全部消化不良にしておいて、最後にSIVAの作品を見せることを回答としたのも、決して悪い選択ではないと思う。
- 石原孝二編編,2013,『当事者研究の研究』医学書院
- 野口裕二,2018,『ナラティヴと共同性 自助グループ・当事者研究・オープンダイアローグ』青土社
- 長谷川公一・浜日出夫・藤村正之・町村敬志,2007,『社会学』有斐閣
3.NHK朝の連続テレビ小説「なつぞら」と考える
本作を語る際に引き合いに出されるのは、もっぱら現在大絶賛放送中の湯浅政明監督の「映像研には手を出すな!」だろう。学校の部活動の中での創造の自由と力、ひいては若者の持つ無限の可能性を感じさせる、まさにクリエイターズクリエイターという感じだ。
はい。なんかいつもよりかなり長くなりましたし、明らかに勉強の脳みそ使ったので文章下手で、固い口調のところも多かった気がしますが、基本備忘録で書いているんでお許しください。