抹茶飲んでからマラカス鳴らす

FC東京サポで鷹党のどうでしょう藩士による映画・アニメを中心とした感想ブログ

引越「パフィンの小さな島」感想

 どうも、抹茶マラカス(@tea_rwB)です。

 『MaXXXine/マキシーン』と同日に見たら高低差が凄すぎて疲れました。

Puffin Rock and the New Friends

WATCHA4.0点

Filmarks3.8点

(以下ネタバレ有)

 

 待ちに待ったカートゥーンサルーンの新作(エルマーのぼうけんからは目を背けながら)。ただ、大前提はNetflixにて配信されている『ウーナとババの島』(全シーズン2)の世界であり、ヨーロッパアニメにその概念があるのかは良く分からないが劇場版:ウーナとババの島、であることは忘れずにおきたい。というわけで、パフィン(ニシツノメドリ、らしい)の住むトンガリ島。ウーナとババの兄弟?姉妹?とにかく子どもたちの下に新たにやってくる友人たちの物語。新たにやってくるのは同じくパフィンであるイザベリ、イザベリ一家と共にやってくるイザベリの親友のキンケイという鳥のフェニックス、そしてカワウソのマーヴィン。ウーナたちと友達になれるかな…という優しい目線もさることながら、彼らがこの島にたどり着いた理由は地球温暖化による環境破壊で住めなくなって移住先を探していたり、海で遭難して怖がりになっている中で流れ着いたり。動物たちだけで物語を進めていく中に、しかし確かに人間の営みによって進む環境破壊への明確な抗議もまた織り込まれている。そういった意味でも『野生の島のロズ』『Flow』と並び立てる作品であるし、『FLY!』もまた射程に入ってくるだろう。鳥アニメがここまで盛んなのは一体なぜなのだ。

 そういった新しい環境への適応を余儀なくされる中で、他のパフィンを助けに行くという名目でイザベリの両親は島を離れてしまう。両親が帰ってくるまでの中、前の島での住処が崩壊していく様子がトラウマ的でもあり、新たな住処と認めることができないイザベリ。すぐに馴染んでウーナたちと遊んでいるフェニックスとの溝も感じ始めて、島のパフィンの卵を良かれと思って巣から動かしたことでにっちもさっちも行かなくなる。ここのイザベリの描写が素晴らしい。子どもが子どもなりに奮闘して、でもタイミングの問題で褒めてもらえず矢印が内向きに内向きになったタイミングで良かれと思ってした行為が間違っていて。そしてそれを取り繕うためにみんなをどんどん巻き込んでいくので一層、今更ごめんなさいを言えない、というここのグダグダの解像度が高すぎる。小学生マジでこんなんだったでしょ?と皆々様の心の中の幼少期に問いたい。ウーナも含めて、いま大事な話をしているつもりでも、大人が割り込んでしまったり、何か注意をそらすことが起きてしまったことでそれまでの話を完全に忘れて、ブレていく瞬間が映画の中にも訪れるのだが、それも含めて子育てであり、子どもたちのありのままだよね、って思える逸れ方なのだ。そのうえで。悪いことをしたらちゃんと謝る、謝罪があって、ちゃんと反省していたら許す、みんなのために頑張る、みたいな真っ当な綺麗事をきちんとやっており、そこにナレーションのチョーさんの優しい視線がわんわんみを帯びるのでそれはもう心穏やかである。

 カートゥーンサルーンならアニメーションの話をしろ!と言われるだろう。本作は、まあNetflixのシリーズ版を見ていただければ質感はわかるだろうが、ほぼ平面で構成して絵本をそのままアニメーションにしたかのような安心感がある。中でもどうやらこの描写は私好みらしいといよいよ気付き始める感じだが、カワウソのマーヴィンが掘るるん♪掘るるん♪したのを追いかける地中のトンネルを行ったり来たりする(たべっ子どうぶつでトンネルを転がっていったのも可愛かったね)のはとっても好きだし、トラウマ的に蘇るイザベリたちが前に住んでいた島に嵐が訪れるシーンは炭を濃淡で表現するある種の水墨画的表現を用いており、パステルなトンガリ島の可愛さとは対極にあるPTSD度合いをしっかりと示せていたのも好感触だ。

 もうちょっと真面目な話をすれば、勿論移民の話でもあるだろう。移民を受け入れる側、する側双方の話であり、広くとれば新たに環境を変えるすべての人に向けた話でもあるし、あるいはPTSDのある戦災孤児の話でもある。カートゥーンサルーンがこれまで描いてきたことを考えるとケルト地方におけるそうした民族の異なりや戦禍の子どもたちのことが念頭にあるのは間違いない。そういう意味ではNetflixにて配信中のレバノン映画『打ちて寄せる』に繋がる部分だって大いにある。そうした中で、やはり安全を確保できる地下のシェルターのような場所で、『野生の島のロズ』同様にいろんな動物たちがひとところに集まって安全を確保しようとする様子は、持って行く文脈こそ違えども、今の世界に必要なものを指し示しているのではなかろうか。