どうも、抹茶マラカス (@tea_rwB)です。
ホラー映画が大変苦手だと言って憚らないのですが、そこに「社会派」とかつけらちゃうとちょっと見たくなっちゃいます。そう、ジョーダン・ピールという名前が着いていたらますます…。
WATCHA4.5点
Filmarks4.3点
(以下ネタバレ有)
1.ずっとリーチかかってる感じ
端的に言ってですね、とにかく怖かったです。
これに備えてしっかりオリジナルの『キャンディマン』を鑑賞したことで、本作の非常に基本的なルール、鏡の前で5回「キャンディマン」と唱えると、鏡の中から黒人男性で右手が鉤爪のキャンディマンが現れ、殺されてしまう、というものをインプットしちゃっているんですよね。
っていうことで、もう予告をガンガンにかけてくるんですよ、この映画。どんどん鏡の前に立つし、なんか知らんけどみんなキャンディマンって言いたがる。ホラーらしい怖い雰囲気のある(と私は思ってしまう)音楽がかかっているので、キャンディマンのキャラがバカバカしくみえないし、ずっと来るよ、来るよ、っていうなんかリーチかかりっぱなし、みたいな状態で、たまに出てきて殺していくっていう感じ。他の人の感想で、1作目より怖くなくて・・・みたいなの見ましたけど、バカ野郎、しっかり怖いですよ。
2.現代に蘇る伝説
重要なのは、なんでこのキャンディマンをもう一回蘇らせる必要があるのか。しかも、最近の社会派ホラーの旗手、ジョーダン・ピールが脚本担当ですよ。そこを納得させてくれないとダメだと思うんですが、そこには納得しかない訳ですよ。
本作の世界は、1作目の『キャンディマン』が実際に起きた世界。影絵アニメーションでその辺の説明もスマートにしてくれますが、まあ1作目を見ておいた方が無難だと思います。んで、その舞台になったカブリニ・グリーン公営住宅の地域は、すっかりジェントリフィケーションが進んでいて、メインどころも黒人ではありますがアーティストだったり、美術商だったりとどちらかというと知識層というか。確か、ブルックリンなんかもそうなんですが、ジェントリフィケーションの過程で、かつてスラムだったり、黒人が住んでいた地域なんかは、アート層やコーヒーショップみたいなのを一回挟んでおしゃれ感を出すんですよね。多分、その途上にあるシカゴが舞台ってこと。また、このアーティスト、しかもちょっと悩める、みたいな設定のおかげで、都市伝説としてのキャンディマンというモチーフに惹かれるのも納得できるようになってるんですよね、上手い。
そろそろ文意がなんなのかわからなくなってきました。要は言いたいのは2点。まずは、このキャンディマン現象が大きく拡散することになるアートの名前“Say his name”とラストシークエンスについてですよ。鏡の前に立って、キャンディマンと5回唱えろ、というスラッシャー要請装置と化したアートではあるんですけど、主人公は幾度もこの言葉も繰り返すことになります。やっぱり、黒人層において、名前を呼ぶ、という行為は近年におけるブラックライブズマターにおける被害者の名前を呼ぶことでの連帯、みたいなのを想起しますし、そうじゃなくても、なにか共通の単語を人種間対立の構図で合言葉として唱える、っていう風にもとれると思います。
そのうえで。キャンディマンをホラー現象、キャラクターにするのではなく、むしろ継承され、概念としてのキャンディマンの入れ物、と捉えたことで主人公がネクスト・キャンディマンになっていく訳ですが、そこに突入してくる警察(しかも見事に全員白人男性)。スクリーンの此方の観客は何が起きていたのかを全部分かった上で、助かったに見えた主人公が警察によって問答無用で銃殺されるのを目撃する。ああ、それこそまさに、黒人に対する警官の攻撃の構図そのものじゃないですか。携帯メディアの発達でそのシーンが映像に撮られて拡散されている現在と何も変わらない、そこにそのままある。その上で、警察は助けに来たテヨナ・パリスに対しても共犯者か?みたいなことを言ってくる。だから彼女は鏡に向かってキャンディマンと5回唱える。その警官も殺してしまえと。差別無くそうね、じゃない。もう攻撃に移るぞ?と。無論、実際の世界で実力行使を持った反撃に出ろ、ではありません。でも、そうしないといけないところまできているのに、まだ皆さん見て見ぬふりするんですか?と。ジョーダン・ピール監督は、またも巧みにホラー映画からこっちに問いかけているのです。