抹茶飲んでからマラカス鳴らす

FC東京サポで鷹党のどうでしょう藩士による映画・アニメを中心とした感想ブログ

人生と前提「アフター・ヤン」感想

 どうも、抹茶マラカス(@tea_rwB)です。

 今回はずーっとアフター・ヤングだと思っていたアフター・ヤンの感想です。Youngではありません。Yangです。ベトナムの通訳はニャンです。

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WATCHA3.5点

Filmarks3.6点

(以下ネタバレ有)

1.冒頭10分の見事さ

 最近はね、冒頭って大事だよねって凄く思うようになったんです。『ビバリウム』の托卵の示唆とか、ああいうの好みだったなっていうのと、やっぱネットフリックス配信作『アテナ』の凄すぎる11分間ね。序盤にぐっと惹きつける要素があることを、すぐに見るのを止めてしまうサブスク世代の悪しき特徴として論っている人を見ましたけど、いやいや、最後まで走りきる魅力をそこで提示する作品の何が悪いんだろうと思いますね。

 そういう意味で言うと、本作は全体のテーマを非常によく表しているのかな、と。まずは殆ど本筋に絡まないコリン・ファレルお茶屋のシーン。コゴナダ監督が韓国生まれということもあって、監督の前作『コロンバス』にもジョン・チョーが韓国人として出演し、韓国語話者でもありました。一緒くたにするわけではないですが、本作でもおそらく中国を示唆する茶屋、中国籍と思われる娘さんなど、東洋へのこだわりを感じます。さて、コリン・ファレルはやってきた客に対して粉末茶は無い、茶葉だけなんだと謝罪します。これは良く調べもせず勝手に思っただけなのですが、うん、粉末茶でお茶を入れると液体に対して融解という現象が発生して一体となってしまいますが、茶葉であればその存在が残る。茶柱、なんて言いますし。つまり、この作品では無かったことになる、とか、消えるっていうことは無いんです、なんて感じに見える。

 そして、人型ロボット、AIって言っていいんだろうか、厳密なアレが良く分からんな、まあヤンが壊れてしまったっていう導入として機能する4人でのダンスゲームのシーン。ここでキャストの名前が出てくるんでまあここまでを冒頭と捉えていいと考えていますが、ここでは主人公の4人家族だけでなく、何パターンかの一家のダンスゲームの模様にカメラが瞬間瞬間で切り替わっていく。で、その組み合わせがジェイクの一家は白人男性+黒人女性の夫婦にアジア人の娘+ロボな訳ですが、子ども2人の家庭が出てきたり、おじいちゃんとかも参加している家庭とかもある。結局、ダンスゲームを遊ぶにあたっては4人家族っていうところしか制限がなく、どんな形の家族だって許容しますよ?っていうメッセージになっていて、しかもその4人だって、3人部門の存在も言及されるので家族の構成要件じゃない。ヤンっていう存在が確かに家族だ、っていう強調にもなるし、そして後に登場するクローンっていう存在に対しても否定する視線を持たないっていう作り。それでいて、作品内でこういう人種構成であることに意味がない。意味がないし言及もされずただそうであるという事実だけがある。だから、本当はここでこれを取り上げて素晴らしい!ということすらも多分間違っているんですが、意識としては過渡期だから許してほしい。こういうふうに意味とか関係なくただいるだけでいいと思うんです。

 ここだけ曲のテンポ?BPM?も早かったのでテンションが高くなりやすかったのもありますが、いや実にいいシーンでした。

2.大いなる退屈

 さて、そうやって序盤で引き込んでからは実に静か。『コロンバス』で見せたほどの長回しとかは無かったですが、やはり基本はフィックスで騒いだりせずに淡々と話す感じ。ヤンが壊れてしまったけども、修理しようとする話、そしてその修理の過程で彼の文化的な価値が分かってその中のメモリでヤンのことを知ろうとする話の2パートって感じですかね。

 でもね、そうやってヤンのことを知って、ヤンが秘かに会っていたエイダがどんな女性で、彼女の大叔母に最初に恋していたんだとか、ヤンの原理上それは一体恋と呼んでいいのか、そういうことを言いたいんじゃないと思うんですよね。ヤンの体内に残った膨大なデータは必要と思われた数秒を残してきたもので、ヤンが壊れた段階から振り返っているので適切な呼び名じゃないかもしれませんが、まあ走馬灯、ですよ。そこでそうして振り返った時に、決して劇的な瞬間ばっかりじゃない。平凡で、平和で、退屈している瞬間ばかり。でも、そこにみんながいて、それが人生ってものではないだろうか、と。ヤンの故障を通して、ヤン自体の人生?と呼ぶべきだろうか、それが肯定されると同時に、彼と共に生きてきた多くの者たちもまた肯定される。喪った人たちの乗り越えに焦点を当てるのではなく、喪って悲しいっていうポイントだけにしてるので、かえって生が肯定されているような、そういう印象を受けました。

 しっかしあれですね、しれっとクローンやらロボットやらおそらく自動運転だったり、SFやる気がそんなに無さそうなのにSFのやり方上手かったなぁ。特に運転、というか車内のシーンはカメラの置き方含めて大好物でした。あれは上手い。

 そう思うと、AIの記憶を通して人間の生が強調されると言うのは、監督の前作『コロンバス』の建築と人間性の関係性にも似ているように思えるし、あと結局経由して人間に帰るあたり、すごくSFだよね、と改めて思いました。