抹茶飲んでからマラカス鳴らす

FC東京サポで鷹党のどうでしょう藩士による映画・アニメを中心とした感想ブログ

モノクロで描かれた対話の不完全性「カモン カモン」感想

 どうも、抹茶マラカス(@tea_rwB)です。

 今回は試写会で鑑賞した作品。試写会場が、『ヘルボーイ』を音が強すぎて体調不良になって途中退場した場所だったんですが、リベンジ成功しました。

C'mon C'mon: A Screenplay

WATCHA4.0点

Filmarks4.1点

(以下ネタバレ有)

1.子どもだから、じゃない。

 本作の主人公ジョニーを演じるのは、ホアキン・フェニックス。あれだけ話題になってしまった『ジョーカー』のせいで、何をやるにしても不穏な感じに見えるんじゃないかと不安でしたが、そこは名優。なーんにも心配ございませんでした。子どもたちから声を集めるラジオジャーナリストのジョニーは、甥のジェシー9歳を預かることになりますよ、っていうだけの話なんですけど、これがたまらんですね。

 ジョニーは全米を渡り歩いて、子どもたちに質問を重ねる。そこでは、映画の一番最初にしっかり提示されるように、嫌な質問はNoといっていいんだ、と提示して、大人と子ども、っていう軸を持って話を聞く、傾聴する、っていうことに注力していることがよくわかるし、それはおそらくメディアとして正しいスタンスだ。

 そんでもって、ここでグサグサくるのが子どもたちの答えだ。ここは、本当にインタビューして、本当に答えてもらったドキュメンタリーのようなパートということだが、台本が無いとは思えないほどアメリカの子どもたちは、世界をどのように見て、どのように考えているのかっていうのに感心してしまう。デトロイト、ニューヨーク、ニューオーリンズアメリカ中を転々としながら各地で聞く「どんなスーパーパワーが欲しい?」「どんな時に感情的になる?」「どんな大人になりたい?」といった問いに対する子どもたちの答えに観客はハッとする。

 そんな風に子どもたちと相対してきたジョニーは、ジェシーに対してもマイクを向けて、インタビューすることで関係を構築しようとしている。だが、ジェシーはそれを拒絶する。このジェシーくん、お母さんが変わっているって明言するだけの子であって、例えば夜になると、ジェシーは孤児院の子で、そしてお母さん(あるいはジョニー)は子どもを亡くした親という設定での会話をしてくる。そのロールプレイむっず、と思っちゃう訳だが、でもそういう子だ。ジョニーはジェシーを子ども扱いしながらも、ゆっくりと対話して、同じ時間を過ごし、疲れ果て、そうしてようやく関係性の構築を出来ていく。子どもと大人、マイクを向ける人と向けられる人っていう関係性を脱して、対等に接する(という風に大人側が思っていたら多分それじゃ足りない)。話すたびに、違う本の登場人物なんだ。相手をコントロールできる、理解できる、っていうのはすっごく傲慢で、不完全で、あり得ないことなんだけど、そのうえで理解しようと努力し続ける。理解はできないけれど、対話をし続けることが、唯一の道なんだって、言い続けてくる。その行為の連続が「愛」であり「優しさ」なんだ。

 ということで、ジェシーがマイクに吹き込んだ、これから何が起こるか分からないし、起こると思ったことは起こらなくて予想外のことしか起こらない。だから前に進むしかない=C'mon C'monっていうセリフがジーンと来るのです。