抹茶飲んでからマラカス鳴らす

FC東京サポで鷹党のどうでしょう藩士による映画・アニメを中心とした感想ブログ

コロナ禍だから響く「Ribbon」感想

 どうも、抹茶マラカス(@tea_rwB)です。

 冒頭で真っ黒の服を着た山下リオが「よっ」と手を挙げた時点で「これは優勝している…」と確信した作品でした。山下リオほんと好き。

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WATCHA4.0点

Filmarks4.2点

(以下ネタバレ有り)

 

1.表現者としての意地

 舞台はコロナ禍。美大に通う主人公たちの卒業展示が急遽中止になっていることから、2020年2月~3月初旬ごろと思われます。ダイヤモンド・プリンセス号でわいわいしていたころでしょうか。劇中でのその日の陽性者数が30人台でこの大ごと、一日に1万人を超えても日常生活がある程度維持されている(蔓延防止措置が出ているとはいえ)現状と比較すると、なんだか遠い昔のようでもあります。

 まあとにかくそういうことで、卒業展示が中止になり、泣く泣く作品を壊す学生もいる中で、のん演じるいつかは自分の作品を持ち帰る。友人の平井は作品のサイズが大きくて持ち帰れない。そこからは自粛生活の日々。家から出れない、でも何のやる気も起きずに家に持ち帰った作品に書き足すこともない。そこに順繰りにキャラ強めの母、父、妹が訪れ、気晴らしに出かけた公園で見かける謎の男の正体も分かってきて。

 この前半の立て続けに家族が来訪してくるシーンは、コロナであったあるある大喜利というか。ディスタンスを保つためにさすまた持ってくる父親、なんでも消毒しまくる妹、みたいなしつこいっちゃしつこい、でも笑っていいのかな?みたいな笑いが続いて。一見、無駄に感じるんですけど、母親が部屋の掃除をする際に持ち帰った卒業制作を捨てちゃう、っていうフェーズが入ってここがやっぱり大事。最終的なゴールが、作品を作ることではなく、誰かに見てもらうことで表現は完成するんだ、そうすることでゴミじゃなくなる、社会に芸術は、文化は必要なんだ!と高らかに歌う訳なので、一見してゴミ扱いしてくる人物が必要な訳です。ということで、謎の男田中は作品を完成させる客体として必要であって、彼にいつかの表現者としての原点とある意味でのすべてが詰まっている。

 個人的に、創作論っていう立場で考えると、私は誰かに見られる、見られないよりも、何でも創作に突っ込んでしまう、人生をうっかり全ベットしちゃう、みたいな表現者の業みたいな話の方が好きだし、そういう人こそ創作者だと思ってしまうので、この話との相性は決して良くないんですけど、いや待て、こういう考えの人がいるんだもんな、とねじ伏せてくるぐらいには反発が起こらなかったです。

 

2.RibbonはReBorn

 正直ね、舐めていなかった、と言えばウソになります。あまちゃんでの大ブレイク以降、能年玲奈という名前を「奪われ」、のん、っていう新しい名前で活動していく中での監督脚本編集主演、っていう独り舞台っぷり。勿論、クリエイターとしてのキャリアが抜きんでている訳でもなく、演じることについての評価はあれど、全部自分でやる、っていうものに関して穿った予想をしていたことは否めません。しかし、終わってみれば、誰かに見てもらいたくて表現をするんだ!っていういつかのスタンスっていうのは、本作を作ると決めたのんさん自体の境遇にも、コロナという状況にも、どっちにもオーバーラップするっていう。一旦平井の作品をぶち壊してから、新たにいつかの手によって卒業展示として蘇らせ、当然、それを見てもらう。このプロセスもまた、能年玲奈でなくなっても、のんとしての自分をもう一度見てもらうRebornな瞬間だったよな、っていうのは強く感じました。