抹茶飲んでからマラカス鳴らす

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しんどい・オブ・ザ・イヤー2021「アイダよ、何処へ?」感想

 どうも、抹茶マラカス (@tea_rwB)です。

 今回は見事、今年の見ていてしんどい映画・オブ・ザ・イヤー2021を受賞することになるだろう作品でございます。無論、稚拙でしんどい、ではなく、直視しがたい現実を映した作品、ということですね。ここまで劇映画でキツいのは、『バハールの涙』とか以来な気がします。

 特に、本作の内容は直近にアフガニスタンで起こっていることを強く想起せざるを得ない内容なので、なんというか実に映画というのはタイミングであると改めて思います。(監督もここに言及しました)

Quo Vadis, Aida Trivia: How Well Do You Know About Quo Vadis, Aida?: Challenge Yourself About Quo Vadis, Aida Trivia

WATCHA4.0点

Filmarks3.8点

(以下ネタバレ有)

1.本作を理解するために

 本作の舞台は明確。1995年7月11日。スレブレニツァの虐殺の開始日ですね。

 ってことで、スレブレニツァの虐殺とはなんぞや?です。

 93年生まれの私にとって、最も何が起きていたか良く知らないのがユーゴスラヴィア紛争。スレブレニツァは、ボスニア・ヘルツェゴビナの都市。ユーゴからボスニアが独立を宣言したところ、ボスニアの地域に住んでいたセルビア人がスプルスカ共和国軍として蜂起、ボスニアをどんどん支配していったところに国連が介入して、スレブレニツァを安全地帯として国連が定めた、いわば紛争の中でのオアシスだったはずの場所。しかし、本作冒頭で説明されるように、スプルスカ共和国軍はスレブレニツァに侵攻、虐殺を行った、という事でいいと思います。劇中、こうした事実は明確には説明されないので、ちょっとそこは鑑賞前になんか読んでおくといいかもしれません。例えば、劇中で言及される「ムスリム」は、イスラム教徒ではなく、ボシュニャク人のことで、ボスニアの主要な民族のことです。

2.圧倒的虐殺の悪、そしてアイダは悪かったのか

 まずもって、強くお伝えしたいのは敵となるスルプスカ共和国の将軍、ラトコ・ムラディッチの凶悪さ。国連がスルプスカ軍を安全地帯を侵攻した報復で空爆してくれ、って言ってる状況なのに、交渉に出向いたらムラディッチが完全に主導権を握ってしまっている。国連から派遣されたオランダ軍の司令官の頭越しに現地の代表として呼びつけた住人3人に語り掛け、タバコをくゆらせて、完全に場を支配してしまう。そこまで支配して、場を既に彼が決めている結論に持って行ったのに、殺されなかった、という事実だけで代表者の一人となっていたアイダの夫は彼を少し信頼してしまう。

 更には、国連の避難施設(といっても廃工場みたいな場所だが)に武器を持ったスプルスカ軍の視察を許し、彼らが食料を供給する始末。ここまで国連が無力なのか、と呆然としてしまう。んで、そういう状況だから、スプルスカ側が手配した車で男女を選別して、移送という名の虐殺へ向けた移動が始まる。セルビア人を殺していないか調べる、なんてセリフが出てくるが、そんなもん調べられる訳はない。そして裏手で何人かは殺されていた。国連の駐留するわずか200m先で。

 結局、アイダの夫も子どもも虐殺をされる訳ですが、その場所もね。向かいで住人が普通にお茶をしているし、隣では子どもたちがサッカーを普通にしている。そんな場所で一カ所に集めて銃殺。惨たらしいとしか言いようがない。

 ボスニア紛争自体は終わっているものの、戦争犯罪に問われたムラディッチ将軍が捕まったのは2011年、終身刑が確定したのは、ついこの前の6月だという。全然地続きじゃん、と驚く。しかも、監督曰く、ムラディッチは未だに一部のセルビア人から英雄視されているという。ここでも断絶…。

 そういう意味では、劇中深くは言及されないものの、ずーっとスプルスカ軍について回るテレビカメラが印象的だ。彼らはベオグラード(つまりセルビアだ)の放送局だと名乗っていた。こういう人道的な犯罪の前におけるメディアの責任、というものをしっかりとそこに刻んでいる。

 さて、歴史的経緯からして最悪といえるスプルスカ共和国軍の悪行はこの辺にして、視点を主人公のアイダに移したい。彼女の仕事は国連でのオランダ軍と現地との間の通訳であり、その説明が冒頭の国連と現地住民との会談での通訳で示される。この1連のシーンでスレブレニツァの最低限の情報も開示している、実にスマートな方法だ。

 アイダは、国連の仕事をしているわけで、基本的には住民を救う「公」の立場だ。

 しかし、夫と子どもが避難施設に入れず、ゲートの向こうにいることから、「私」を優先し始めてしまう。手始めに、夫をスプルスカ軍との会談の代表者にすることを条件に、家族をゲートの内側にいれる例外措置を強行。更に、施設内を視察したスプルスカ軍にちょっと目を付けられたことから、子ども2人を立ち入り禁止で国連側のゾーンにしてあるエリアに隠し、更にはスプルスカ軍側の手配した移送ではなく、国連軍側の退避に自分だけでなく家族も含めるようにと奔走する。

 こうした一連の行為は、目の前にいる何千人もの人々を救うためではなく、目の前の3人を救うための行為であり、しかも映画を見ている観客からすると、かえって危険な方向に暴走しているようにしか見えず、それこそ目をそらしたくなってしまう。退避リストに国連の発行するIDを持っていない彼らを含めると、国連軍ですら、命が危ぶまれる。個人の為に、組織全体を危険に陥れかねない行為だ。

 こうした行為が実に危ういことを、実は劇中では長男が指摘している。母さんは全部自分で一人で決めてしまう、と。まさにその通りで、私の言うとおりにしていけば、全部うまくいく式の行動パターンで、でも、こんな状況下で、彼女をどうして責めることが出来るだろう、とも思えてしまう。

 最後、視点は紛争を生き延びた現代の彼女へ移る。セルビア人の敵が写っているかもしれないと破り捨てた写真や夫の日記。彼らの存在した証拠を捜す。そして彼女は学校の先生に復職している。この映画と同じように、伝え、残す為に。