抹茶飲んでからマラカス鳴らす

FC東京サポで鷹党のどうでしょう藩士による映画・アニメを中心とした感想ブログ

「ドラえもん のび太の新恐竜」を唾棄すべき理由

 どうも、抹茶マラカス(@tea_rwB)です。

 いよいよ劇場に新作アニメ映画が帰ってきました。第1弾はドラえもん新作。何度か書いたように、小さいころから見たことはありますが、ブログを書くようになってからは初めての鑑賞になります。

 久しぶりの新作アニメ映画、予告編もスタンドバイミードラえもん2やプペルなど、まだ見てないやつがいっぱいで情報仕入れることが出来ました。プペルって4℃なんですね。

※このブログで書きたいことはヒナタカさんがかなり上手に言語化されているのでそっちを読んだほうがいい気がします

[酷評ネタバレ感想]『ドラえもん のび太の新恐竜』多様性の訴え方が間違っているスーパー根性論映画

小説 映画ドラえもん のび太の新恐竜 (小学館ジュニア文庫)

WATCHA2.0点

Filmarks2.0点

(以下ネタバレ有り)

 

1.見事なアニメーションで描かれる圧倒的可愛さの化身

 まず本作を見て思うのは、とにかく可愛すぎるミューとキュー。

 え、やばくないっすか、可愛すぎるでしょ。生まれたその瞬間に上げた産声からのミューがまず可愛い。こいつあざとすぎる。そう思っていたら、少しして気づかれる2匹目のキュー。こいつはもっとあざとかった。食事を嫌がるシーンや、のび太に重ねて描かれるようにする欠伸。ああ、こいつなんて可愛いんだろう。

 親として恐竜を飼うことになるのび太の甲斐甲斐しさが、素直に育っていくミューとなかなかうまくいかないキューの両者が対比されながら進んでいくことで強調され、そしてジュラ紀に行った際の怯えっぷりなんか見たらもう「守りたい、この笑顔」ですよ。まあシンプルにここで話が多少停滞しようとも見続けられる非常に魅力的なキャラクターを作ることに成功したと言えると思います。

 まあ、本音を言えば、可愛いんですけど、友チョコ食わされたり、あと日本語をの理解力が非常に高く、擬人化されすぎてキモイな、と思ってしまったのですが。

2.のび太の解釈を誤った結果生まれる優生学的思想

 まあ、褒めましたけどね、タイトルでも分かる通り、私この映画にブチギレといって良いレベルで怒っているんですよ。唾棄すべき、とさえ言うのを憚らない勢い。

 その大きな原因は脚本を務めた川村元気の大きな2つの誤りにあります。これによって、ドラえもん世界に大きくヒビを入れたと私は感じました。

 まず第1にのび太の解釈に関する過ち。端的に言えば導入。のび太ジャイアンスネ夫に化石はおろか、生きた恐竜を見せると豪語してしまうが、なんか奇跡的に恐竜の卵を手に入れ、タイムふろしきを使って卵の時間を遡らせて恐竜を誕生させる。脚本の川村元気はここまでは「のび太の恐竜」と同じだと言っているから彼に責任があると考えていいと思うのですが、全く同じではありません!決定的に異なるといっていいでしょう。それが、卵にタイムふろしきをかけて、この化石が恐竜の卵なのか、見極める場面。旧作では、タイムふろしきをじーっと見つめ、そして卵だと判明してからはパパやママに怒られながらも布団にくるまり続けて、温めて孵化させようと必死になっています。ところが、本作ではタイムふろしきをかけたまま晩飯を食いに呑気に階下に降りていき、戻ってきたらまだかかりそうだね、だなんてほざく訳です。こんな導入をされたら、いくらそれ以降キューとミューにのび太が愛情を注いでいても、そこにあるのはジャイアンスネ夫に自慢するための道具としての恐竜としか見えません。最悪です。ここではのび太が珍しく自主的に取り組み、ダメなりに愛情をもって接するからこの先が良いわけじゃないですか。

 んで、第2に。これが致命的だと思いますが「成長」と「進化」を意識的か、無意識なのか知りませんが混同して誤用しています。巨悪。

 本作は大きなプロットとして、逆上がりができないのび太と空を飛べないキューが重なり、そして終盤の大きな見せ場でキューが遂に空を飛び、別れの後に、のび太も逆上がりが出来るようになる、そんな夏、みたいなものがあります。んで、この終盤のイベントが恐竜を絶滅から救うための行動で、それが時空犯罪にならないエクスキューズとして、キューは恐竜の中でも鳥類の始祖だった、ということになるんです。ミューと比較して小さい体躯、短いしっぽ、羽ばたいてしまう癖、そしてのび太の家の周りで執拗に描写される鳥たち。まあそういうのが伏線として張られていて、それ自体は別にいいんですけど、つまりキューが飛べることを「進化」と捉えられています。一方、のび太の逆上がりは「進化」でしょうか。いいえ、勿論これはただの成長です。

 「進化」と「成長」は似て非なるものです。「進化」は、環境に応じて何らかの形質が変化することであり、進化の結果滅んだ生き物だってたくさんいる。「進化」はあくまで変化だ。

 一方、「成長」は変化を表す単語ではあるが、基本的には大きくなる、優れた存在になる、というニュアンス。だから、ミューやキューの身体がどんどん大きくなっていくことは「成長」と言ってもいいだろう。そこには進歩の意味が含まれていく。

 つまりこの決定的に異なる両者を同列に並べて同一化したために、ノイズが凄いことになる。このことがもたらす嫌な結論と社会への大げさな危惧が次項に続きます。

3.蔓延する社会的ダーウィニズム。多様性の捉え方。

 前項で本作において「進化」と「成長」が混同されていることを語ったが、その結果どういうメッセージが生まれたか。端的に言えば、のび太はハッピーエンドを迎えない、という結論だ。

 本来は進化であると捉えられているキューの飛行が、本作では情緒的にとにかくみんなが出来るんだからいつか飛べるようになる、練習すればいい、という成熟・成長の目線で語られている。無論、群れから拒絶されるのは仕方ないが、問題はそこでのび太が飛べるように何度もけしかけることだ。

 浅く考えれば、のび太が何度も自分で断っているように、できない人間なのに他者に対して厳しいスパルタ教育をしているように感じるし、飼うという行為に存在する権力関係でも教育を想起させる。ただ、事態はもっと深刻ではないだろうか。キューが生きていく意義をのび太の側が飛べるか、飛べないかの一点で見極めており、本作における情緒はそれをわかってくれない、みたいな親の心子知らずが基準になる。そして、飛べるべき理由も、羽があるから飛べる、ミューが飛べるから飛べる、他の恐竜がみんな飛べるから飛べる、とキュー自身でなく、外部に求めている。

 大げさかもしれないが、やはり最近話題にもなった優生学の観点を想起せずにいられないのは私だけだろうか。ALS患者の嘱託殺人事件に関して、れいわ新選組の舩後議員がコメントを出したり、維新の会が死ぬ権利を議論すべきだと打ち出すなどしていた。あと何、野田洋次郎でもいいし、石原慎太郎の業病でもいいし、勿論津久井やまゆり園でもいい。生きる理由を自分でなく、他者が決定する時点で私は好きではないが、これが今回のように、「進化」が絡んだ時、それはある種の優生学社会進化論や社会的ダーウィニズムと呼ばれ、一般にナチスによるホロコースト帝国主義的な植民地支配、奴隷制を肯定する言説として使われてきたものとなってしまう。こうした言説が、子どもたちをメイン層にした映画で何の検証もなく扱われているのは、流石にムムムと言わざるを得ない。なまじミューとキューに感情移入させられている分悪質ではないだろうか。

 また、こうした思想を喚起させるのがラストの恐竜を救うという決断だ。のび太たちは、絶滅する恐竜たちを何とか救おうと尽力するが、ここにおいてのび太たちと恐竜たちの間に救う・救われるの権力関係が生じてしまい、当然すべての恐竜を救えないので選別、という過程が登場する。実際には、時間的猶予の問題で選別はそこまで大きな課題には見えないが、のび太たちを襲っていた翼竜はスモールライトによって無害化され、恐らくは淘汰される。なんというか、そこに、キュー&ミューに有害か無害か、という評価軸が持ち込まれてしまう。あるいは、肉食恐竜と草食恐竜が同時に救済された島において、ジャイアンの友達となったゴルのような存在だけが生存を許されている、そんな気がしてしまう。

 そして、この視点に立つとき、のび太は社会的に全く不要な存在となる。みんなができる何かができないと、社会に受け入れられないなら、逆上がりができたところでなんだというのだ。しずかちゃんは何でもできる男、出木杉と結婚する未来に到達するだけで、本来ドラえもんが何のために現代にやってきたのか、意味が無くなってしまう。川村元気はこうも言っている。多様性が弱いものを大事にしよう、と描かれることに違和感があると。この時点で多様性というものの理解が決定的に間違っていると私は思う。どんな存在でもそのままでいることを尊重されるのが多様性ではないのか。

 そう、ドラえもんは多様性を正しく理解し、のび太を肯定してきた。たとえテストで0点で何もできなくても、のび太のび太であるが故に存在を許されていたはずなのだ。中途半端にしずかちゃんがそこだけを切り取った台詞を本作でも放つが、まさに川村元気ドラえもんを理解していない証左と言えるのではないだろうか。下記リンクを読んでも、多様性が進化への歩みとあるが、違う、違う、そうじゃ、そうじゃない。なんで進化がゴールなんだ。進化した結果多様になったんだ。ガラパゴス等で多様性を目の当たりにしたから進化を発見したんだ。ちゃんとダーウィンの伝記読め。

harumari.tokyo

 という訳で、ひみつ道具ジュラ紀に落とした時点で時空犯罪だとか、せめて現代に戻るときはあのスカーフは外せとか、そもそも化石がなんであんな方法で手に入るんだ、みたいな結構根幹を成す問いですら、個人的には無意味だった。残念。