抹茶飲んでからマラカス鳴らす

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言語は文化の礎となる「マルモイ ことばあつめ」感想

 どうも、抹茶マラカス(@tea_rwB)です。

 昨日の「はちどり」に続いて韓国映画の感想になります。今年は韓国映画結構見ている気がしますが、次はキム・ジヨンまでないかな?なんか忘れている気もします。

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WATCHA4.0点

Filmarks3.9点

(以下ネタバレ有り)

 1.まるで「タクシー運転手」

 今回の映画で想起するのは、まず間違いなく2018年のベスト級映画「タクシー運転手」。一応ざっと確認しておくと、ソン・ガンホ演じる能天気なタクシードライバー光州事件を取材しに来た外国人記者を乗せて光州へ向かい、事の重大さを理解してマッドマックスになる話でした(?)。

 今回のマルモイは、韓国併合がなされた後の朝鮮半島を舞台に、朝鮮総督府に隠れて朝鮮語の辞書作りを行う朝鮮語学会の面々と、そこに偶然加わることになった劇場のもぎり兼掏摸のキム・パンスの物語。

 本作も、「タクシー運転手」同様、決して明るくはない史実がベースではあるが、特に前半はコメディタッチをベースにしながらしっかりと対比できるシーンを仕込んでおり、実に周到な脚本という印象。最初は日本語だろうと朝鮮語だろうと、腹が満杯になるなら、どっちでもいいじゃないか、なんて言っていたパンスが、文字の読みを覚えて、まさに世界が拡張された瞬間の喜びは実に感動的。そこから、朝鮮総督府とのいざこざ、辞書を作るための公聴会開催の顛末、逃走劇と一気に話はシリアスでありながら、しっかりカタルシスを持つフィクショナルな方に動いていくが、これもやっぱり「タクシー運転手」と同様に、自然な流れでありながら、エンタメとして社会問題をしっかり取り上げることに成功している。

 こんだけ引き合いに出すのも、今回の監督・脚本が「タクシー運転手」で脚本を務めたオム・ユナであること、そしてめちゃくちゃ印象深い役柄を演じていた名脇役ユ・ヘジンが本作の主演であるから。まあ、ソン・ガンホがユ・ヘジンになって、光州事件韓国併合になっただけ、と言えばそうかもしれないが。

 本作でまあ分かりやすく燃えるのは、朝鮮語学会のリュ会長とキム・パンスのバディ感だ。「工作」ほどのラブラブ感は無いものの、文盲で貧困層、世間もよくわかっていない労働者が志ある集団で口八丁で馴染み(初手で馴染みすぎだが)、認められる中でパンスを認めない会長。ところが、仲間の詩人先生を助けたあたりから見直し、同志と呼ぶようになる。中々のツンデレじゃあありませんか。辞書作りの為に、親日派と呼ばれることも辞さずに大政翼賛会的な組織に加盟し、一番肝心な公聴会を開く算段でパンスに重役を担わせ、命より大事な原稿を託す。しかも逃げ切りの為に、かつて自分がすられた時の枕と取り換えるパターンを仕込むなんて、こりゃもう相思相愛。

 あと、これも「タクシー運転手」同様ですが、親子ものとしてもとても良かった。スンヒとトクジンの2人を通して、日本の行った皇民化政策、具体的には創氏改名日本語教育の怖さと朝鮮人というアイデンティティのところを描きながら、教育の支配の怖さとパンスの父としてのダメなりの愛し方もしっかり描かれていました

2.辞書の先。言語と文字の違い

 さて、基本的に「タクシー運転手」と同じ扱いをしてきていますが、じゃあこの映画独自の点は何なのか。それは勿論、言語を扱ったという点。日本による植民地支配で朝鮮語の使用がどんどんと禁止され、町の看板からもハングルが次々消えていく。朝鮮語の存在自体が無かったことになってしまう。

 そんな中で辞典をつくる、言葉の絶滅を防ぐという大志は非常に称賛したいものであり、まあ極端な同化主義はやっぱりクソだな、という意識と、世の中全部アーカイブ化しろ、という保存主義過激派の血が騒ぐ訳です。言語を失うことは、文化やアイデンティティを喪失するだけでなく、ヴィルヌーヴの「メッセージ」的に言えば、思考体系を一つ失う、という意味でもあります。

 だから、朝鮮語学会のメンツの方言も含めて網羅しよう、という心意気はこれまた素晴らしいと思うのです。思うのですが。10年かかって、おそらく収録単語の選出と定義づけを行い、パンスの加入あたりで同時並行していた方言の収集を本格化したと思われます。選出と定義づけに時間がかかることは「舟を編む」なんかでも描かれているから仕方ないんですが、問題は方言収集。こっそり各地方出身の朝鮮語教師などに協力を乞うていた訳ですが、ここで大逆転するのがパンスが刑務所時代に知り合った各地出身の元受刑者たちを連れてきたこと。これですべてが解決するのはいいんですが、これって結構本質的な問題を抱えていると思うんですよ。

 文化の根幹をなす言語が喪失されようとしている中で、それをサルベージしたい時、辞書を作るのは大事ですが、それだけじゃダメだと思うんです。文字情報だけではなく、音声情報が極めて重要。勿論、それを分かっているから劇中で歌が登場したり、劇場での集客文句を言わせてリュ会長が全然出来てなかったりするとは思うんですが、それをヒントにして音声の方を拾う意識があったわけではなさそう。話者の存在を無視して方言を収集しよう、というのは多少無理があると思うんですよ。例えば、日本にだって、文字情報では残っていても、話者がほぼいなくなり消滅した方言は数多あるでしょうし、一番大きい例で言えばラテン語の話者は現在はいません。ラテン語の方言なんて分かるんですか?これが辞書の限界であり、本作が「ことばあつめ」であって「文化の救済」まではいかない要因だと思いました。

 こうした結構無茶な提起をするのも、ここまでをしっかり描けているからこそ。常に高レベルを出してくれるからこそ、最高レベルに到達するためのあと一手を欲してしまうものです。

 

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