抹茶飲んでからマラカス鳴らす

FC東京サポで鷹党のどうでしょう藩士による映画・アニメを中心とした感想ブログ

現象としての「ジョーカー」誕生

 どうも、抹茶マラカス (@tea_rwB)です。

 今回は「ホテル・ムンバイ」を見ようとしたら無料分の席が無いと言われて前倒し鑑賞、とはいえみんな見てるじゃん、ってか大ヒットじゃんの「ジョーカー」です。「ヘルボーイ」と合わせて見たのでR15アメコミ映画2本立てになりました。

Joker (Original Soundtrack)

WATCHA4.5点

Filmarks4.3点

(以下ネタバレ有り)

1.エピソードゼロではない

 いやー、正直言って、この映画に対してヴェネツィアで賞取るまでは懐疑的だったんですよね。DCFUは迷走しまくってるし、「スーサイド・スクワット」とか酷いもんだったし。

 しかも、ジョーカーはティム・バートン版「バットマン」とノーラン版「ダークナイト」での稀代のヴィランで純粋悪。目的がない概念的な悪。そのオリジンをやってしまうことで、理解できる、形容詞のつくヴィランになっちゃうのはなんだかなあ、という思いが非常に強かったのが実際のところでした。

 ところが、実際に見て強く思ったのは、この映画はDCにおけるヴィラン「ジョーカー」のエピソードゼロ、誕生譚では無い、というものでありました。この映画によって描かれたのはジョーカーの誕生ではなく、アーサー・フレックの半生。

 だから、ヒース・レジャーの凄絶な名演じゃジャック・ニコルソンの怪演、ついでに申し訳ないが印象に無いジャレッド・レトとも比較するものでもない。あれはジョーカーの演技だけど、今回のホアキン・フェニックスはアーサー・フレックの演技をしたのだ。勿論、痩身であまりにも辛いアーサーを演じたホアキン・フェニックスの演技はアカデミー賞級なのは言うまでもない。

 アーサーは市のカウンセリングに通っており、もっと薬をよこせ、痛いのはもう勘弁だ、と呟く。カウンセラーはもう7種類も飲んでるから多すぎる、と返す。今現在7種類の薬を飲んでるんで、もう私には刺さりまくりですよね。アーサーへの感情移入が凄い状態に。そこから彼の生きる支えだった母が嘘まみれ、自分の存在も嘘、そして彼自身が信頼できない語り手であることが明かされるわけだが、その情報自体もアーサー自身が自覚しているのかわからない。虚構だらけの世界に住んでいることに対するショック、壊れない自信が正直自分には全くない。

 だから、復讐を決意した舐めてた系映画で道具の準備をしたり着替えたりするように、アーサーが鏡の前で白塗りをするシーンはまさに解放、といった感があり思わず涙しそうになってしまった。

2.「悲喜こもごも」という抽象概念

 この映画をTBSラジオ「たまむすび」内コーナーアメリカ流れ者にて町山智浩さんが紹介していた際に印象的だったのが、喜劇と悲劇、チャップリンの話。バナナで転んだ時に顔をクロースアップすると悲しい悲劇に映る。だが、引いた絵になった途端、それは面白おかしい映像となる。そう悲劇と喜劇は紙一重なのだ。

 この映画は確かにそのことに気づいたアーサーが解放され、ジョーカーとして覚醒している。自分の人生は悲劇だと思っていたが、喜劇だと解釈しなおし、暴動も殺人もまた、喜劇と捉える。

 実はこの構図は最序盤に提示されている。今となってはそれが虚構だった可能性が高いシーンではあるが、デニーロ演じるコメディアンの番組観覧に訪れたアーサーがスポットライトを浴びて話すとき、アーサーが母と二人だと話すと笑いが起き、デニーロは「それは笑うところじゃない、私も母と二人暮らしで…」などと上手くマネージメントして最終的にアーサーをステージに招くところまで描かれている。そう、本人にとって悲劇でも会場の観客には喜劇だったのだ。そんなものは、見ている人の解釈次第。まさに後に現実の会場でアーサーが演説した通り、それが悲劇か喜劇かはそれぞれの主観に依存する。

 そう考えると、、「悲喜こもごも」という言葉の矛盾を強く感じる。TBSラジオ「アフター6ジャンクション」の金曜日の投稿コーナー抽象概念警察に投稿しようか、というレベルでだ。誰かにとっての悲劇は喜劇。悲喜こもごもは、アーサー・フレックにとってはすべて悲だったし、ジョーカーとしては喜びしかないのだ。

3.「ジョーカー」という現象

 ここまでで注意しておきたいのは、「ジョーカー」という呼称だ。アーサーがジョーカーとして覚醒した、という表現は避けたい。前述のとおり、おそらくアーサーは「ダークナイト」に出てくるような「ジョーカー」ではない。便宜上、アーサーがコメディアンネームとしての「ジョーカー」を設定したので「ジョーカー」の名称を用いるが、我々が映画を見る前に想起した「ジョーカー」はアーサー自身のことではない。

 本人は番組の演説で否定したが、間違いなく「ジョーカー」という象徴だ。解放されて、逆に素の自分がコメディアンの「ジョーカー」だった、それは事実だろう。でも世間の人はメイクをしたアーサーがゴミ箱に捨てた「ジョーカー」のマスクを被って暴動を起こす。その現象こそが「ジョーカー」なのではないだろうか。電車内で警官をリンチし、救急車でパトカーに突っ込み、そしてウェイン夫妻を射殺する、なんだったら冒頭でアーサーから看板を盗んで、アーサーをボコボコにする子どもたちの行為。これらすべてが「ジョーカー」という現象であり、アーサー・フレックの解放は、現象としての「ジョーカー」の誕生なのだろう。現象としての「ジョーカー」と言えば、「ダークナイト ライジング」上映時の銃乱射事件だってそうかもしれない。「ジョーカー」は現実に侵食している。

 普通に考えても、あの年のブルース・ウェインはアーサー・フレックと戦うには若すぎるし、アーサー・フレックは頭も、力も無さ過ぎる。これまでのジャック・ニコルソンヒース・レジャーの演じてきた狂気の悪、ヴィランとしての「ジョーカー」と今回のアーサーが発端の、現象としての「ジョーカー」は縦の線で結ばれることはあっても、重なることは決してないのではないだろうか。

 ということをつらつらと書いてみたら、やっぱり先に書かれていた。うーん、流石一流ブロガー結騎さんである。私の感想読むぐらいならコッチ読んだ方がいいですよ…

www.jigowatt121.com

4.ゴッサムシティの話…じゃないよね。

 最後に、一応触れておくべきなのはこの作品がヴェネツィアで金獅子を受賞した理由にあるだろう社会性の部分だろう。この作品の舞台はあくまでアーカム州のゴッサムシティだが、そこに映っているのはどう見てもアメリカ社会の現状であり、描かれている格差問題は現実のそれと明らかにリンクする。

 ウェイン市長候補が開いたチャリティーイベントは一見貧困層の為のイベントに見えたが、盛大なホールで重大な警備の元、全員がタキシードで揃っている。そこに紛れたアーサーは劇中でいつも来ていた黄色いパーカーだ。ハンズアクロスアメリカを批判的に引用することで、アメリカ社会の格差問題を描き出したジョーダン・ピール監督の「アス」を思い出さなかった人はいないだろう。

 更に言えば、映画日本公開のタイミングで香港では覆面禁止条例が制定された。マスクをつけることを禁止している。意味合いは異なるが、世界に「ジョーカー」現象が起き始めていないだろうか。

tea-rwb.hatenablog.com

 このアーサーの物語は明確にこのクライマックスがピークであり、この後「スーサイド・スクワット」に参加する未来図は全く見えない。DCがヒーローたちをどう並べてジャスティスリーグなどのアッセンブル作品を作っていくつもりなのか知らないが、逆にその混沌がこの傑作を生みだしたのかもしれない。