どうも、抹茶マラカス (@tea_rwB)です。
今回はTOHOシネマズシャンテに1日に入り浸ったスーパーシャンテDAYの1作目。順番が本当にバラバラで申し訳ないですが、キミスイとかサニーとかちゃんと別verも見てから、とか考えてると遅くなっちゃうんですよね。
WATCHA4.5点
Filmarks4.3点
(以下ネタバレ有り)
1.全男必見の育児映画
物語の中心になるのはマーロ。夫ドリュー、手のかからない娘と障がいを抱えた男の子を持ち、第3子を妊娠した家庭。
序盤からこの息子ジョナの描写は非常に巧みで、落ち着かせるためのブラッシングやいつもと駐車場が違うだけでぐずり出す感じ、とてもリアルで下手くそなやつだと本当に酷い描写になるので、この時点でこの映画の演出に関しては安心して見られるように。
学校からは面倒を見切れないので、専属教の教師のようなものを雇うように要請される。まあ学校としても仕方ないよなぁ、とも思います。
そんな中無事に第3子が生まれたマーロですが、既にパンパンな状態なところで新たな育児タスクが増え、生活はみるみる疲れていく一方。成功者である旦那の兄一家から夜間のシッターを頼む提案をされても断っていたが、息子の転校を促された段階で怒りが爆発。自身の限界を察したマーロは提案されていたシッターを頼み、そこでやってきたのが得体のしれない若いシッターのタリーでした。
このタリーがシッターとしては完璧で。タリーによってナイトシットは任せられ、マーロの心身の健康も回復、女性としてあるいは、人間として解放されていくことになります。
そういった話は後述するとして、世の男性が必見すべきなのがマーロの育児描写。見てはいない作品ですが、「アトミック・ブロンド」「マッド・マックス怒りのデスロード」なんかでゴリゴリのアクションをしていたと聞くシャーリーズ・セロンの疲弊ぶりが凄く、あんなに疲れ切った顔、だらしのない身体。役作りとしてえげつないです。
そんなマーロが苦悩する育児をこれでもか、と描いている。搾乳して、おむつを替えて、それを捨てて。その繰り返し。この家庭で描かれる夫ドリューは、ちゃんと仕事して、帰宅後は子どもと遊んだり、宿題を一緒にしてる。家事は奥さんに任せて、その後は自分の時間ということで、ヘッドホンを装着してのゾンビゲーム。でも、これってちゃんとやってるからこれぐらいいいでしょ、って言いたくなるラインだと思うんですよね、正直。勿論、それでいいって言ってるわけじゃないし、この映画で答えが出るわけですが。
結局、マーロは追い詰められ、そのまま爆発してしまったわけですがこの映画のラストでドリューはしっかり反省して、マーロの聞いていたイヤホンの右耳を外して自分の左耳に着ける。ちゃんと2人で生きていこうと決意してくれます。
重要なのは、だからって完璧な夫でいなくてはいいことを示唆してくれてることです。だって、完璧志向のマーロは結局爆発しちゃったわけで。だから完璧じゃなくていい、ちゃんと2人で支え合って生きていこう、そういう結論だと思います。
正直似たようなメッセージに「未来のミライ」が今夏にありましたが、よっぽどこっちの映画の方が世の男性たちは見るべきだったと思います。
2.驚きのジャンル違い映画
ここまで書いてきましたが、この映画。まさかのコレだと思ってたらコレでした系映画だったんです。
完璧なシッター、タリーと関わっていくことでマーロは負担が軽くなっていき、一気に顔や身体にハリや笑顔が戻っていきます。子どもたちのごはんは冷凍ピザから手料理に代わり、娘とカーリー・レイ・ジェプセンを熱唱。息子の学校の問題もしっかり話し合って、彼に合った学校にも転校させます。転校先の学校での何も謝らなくていい、なんていう描写も素敵でした。
で、問題はこのタリーというシッターの謎。この完璧なシッターは何者なのか。私が、この違和感を抱き始めるたのは初日。いきなり家じゅうが綺麗になっていて、流石に凄すぎない?なんて思ってしまったんですよ。そしたら今度はカップケーキまで焼いてるし、勝手に冷蔵庫開けて飲み物飲んだりしてる。パーソナルスペースの狭いタイプなのかしら、なんて思っていたら遂に赤子を放っておいて夜空での会話になった瞬間に違和感は確信に。この辺りから赤子ミアへの描写は殆ど無くなっていく。そして驚きはそのままベッドに乗り込んで旦那さんとコスプレプレイ。しかも翌朝その話を何のてらいもなくしてる。
正直、ここまでの段階でタリーは架空の人物かなぁと思ってたんですがドリューとの接触があったのでアレ?実在の人物でいいのか、単純に夫婦のマンネリ解消になっちゃったの?と少し安心しちゃったんですよね。
こうやって安心したトコで再度突き放すように、車で外出した上に飲酒。おいおい、シッター失格じゃねぇか、と思ったところで衝突事故。「セッション」を思い出す展開。当然入院、ここでタリーがイマジナリーフレンド、というか26歳の頃のマーロだったことが分かります。このばらし方も、病院の受付でドリューが質問にマーロの旧姓を答える形でのネタバラシで非常にスマートでした。
3.その日常が愛おしい
結局のところ、育児に疲れ、毎日のルーティンばっかりで産後うつに近い状態にまで追い込まれたマーロが、まだ何者にもなれる無限の可能性を感じていた26歳のタリーを捨てられず出現させてしまった、という話でした。
でも、その繰り返しの中でも子どもは成長しているし、その変わらない日常こそが幸せなんだよ、なんてことも教えてくれました。
そういった意味では、このひとつ前のブログでも取り扱った「追想」と同じように「レディ・バード」を思い出す作品でもありました。