抹茶飲んでからマラカス鳴らす

FC東京サポで鷹党のどうでしょう藩士による映画・アニメを中心とした感想ブログ

罪を抱える者はどう生きるのか「羊の木」感想

 どうも、抹茶マラカス (@tea_rwB)です。

 結局3月です。今頃は映画の日を利用して何かを見ているでしょう。怒涛のように見たい作品が押し寄せるので大変です。

 今回扱うのは、「桐島、部活やめるってよ」の吉田大八監督最新作「羊の木」です。まあ見たいと思っているまま桐島は見ていないのですが。

羊の木

WATCHA3.5点

Filmarks3.5点

(以下ネタバレ有り)

 1.絶好調なOP

 この映画はとにかく始まりが最高でした。

 錦戸亮さん演じる月末が6人の前科者を迎えに行くのですが、全員に「魚深はいいところですよ、人もいいし、魚もおいしいし」と伝えることで、そのリアクションで6人のキャラが浮かび上がります。また、驚くほどのスピードでの食事や甘いモノを欲するところ、そしてわっかりやすいお出迎えと彼らが受刑者であることの描写も素晴らしい。ここからどのように彼らが交わっていくのか、あるいは交わらないのか。期待していたのですが…

2.共生の本質が問われる

 6人の元受刑者たちは仕事と住居を政府から保証されて10年の任期?で魚深に住むことになります。魚深はほとんどの町民がその事実を知ることなく、前科者との共生を強いられることになります。6人はそれぞれ居場所を見つけていきます。ヤクザ大野はクリーニング屋に認められ、理容師福元は同じ境遇の店主に支えられ、優香演じる太田は月末の父との愛情を育んでそれぞれ居場所を手に入れます。誰とも絡まなかった栗本は抽象的なメッセージの担当でしょうか。そして居場所はどこであれチンピラだった杉山と、文と恋仲になり居場所を手に入れたかに見えた真のサイコパス宮腰は命を落とすことになります。

 居場所を見つけられれば、どんな人でも生きていけるという話にも見えつつ、生まれついて理解しえない他者の存在を示唆しているようでもあります。

 ただ、個人的にはこのメッセージは気に入りません。政府は、雇用者に対して元殺人犯であることを隠しています。その結果、大野や福元は店を辞める覚悟をしていました。店主の理解があったため、大事には至りませんでしたがもしそのまま追い出していたらどうなっていたのか。偽りだったとはいえ、一時的に与えられた居場所を取り上げられた彼らは死を選ぶか、あるいは罪を犯してしまうかもしれません。それなのに町には10年いなくてはいけない。再犯を生む地獄のようなシステムだと思います。

 こんな杜撰な政策で地方創生を図る行政には呆れますし、共生の見本としても許されるものではないと思いました。難しいことなのはわかっていますが、しっかりと真実を話したうえでの身請け人を探すのがベストであり、フィクションでなら許される嘘だと思うのです。そのため、この設定の時点でかなり点数はダウンしたのは否めません。

3.ピカイチな役者陣の演技

 本当は、役所の月末の後輩の守秘義務をカケラも守らない言動などにもイラっとしましたが、そういうところを除けば、役者陣は素晴らしい演技だったと思います。

 まずは何といっても、主演の錦戸亮さん。ジャニーズの誇るイケメンでありながら、「普通の人」を完璧に演じていたと思います。特に、宮腰と文が付き合い始めたことを知って、本来漏らしてはいけない宮腰の情報を漏らしてしまう小市民っぷりなんかは最高でした。

 そして色気が溢れすぎてどうかしてる優香さん。なんですか、あれ。虜にならない男はいないでしょうね。同じ前科者チームとしては、北村一輝さんのどうしようもないチンピラ感もよかったですし、松田龍平さんの不思議っぷりも外せません。散歩する侵略者の時もそうでしたが、松田さんは異質な存在を演じさせたら、右に出るものはいないかもしれませんね。

tea-rwb.hatenablog.com

 4.栗本の拾った羊の木とのろろ様は何を意味するのか

 非常に示唆的な結末を迎える本作。そもそも羊の木とはなんなのか。そしてのろろ様とは。少し考えてみました。

 冒頭では「東タタール旅行記」が引用されていました。内容は以下です。

 その種子やがて芽吹き タタールの子羊となる

羊にして植物

その血 蜜のように甘く

その肉 魚のように柔らかく

狼のみ それを貪る 

(羊の木公式HPより)

 この内容が栗本の拾った羊の木の絵と連関していると考えられます。

 子羊、というのはキリスト教的に言えば我々になります。それを導くのがキリスト。迷える子羊とかよくいいますよね。多くの子羊の中で、狼=本作における宮腰や杉山を意味していると考えられます。

 一方で、キリスト教的観念でいうとキリストは木の幹であり、枝が我々。そしてその手入れをする農夫が神という考え方もあります。羊の生える木において、狼が生えてこないように手入れをするのが神=のろろ様ということでしょうか。

 キリスト教においては、世界の終末に死者が全て蘇り、永遠の命を手に入れる者と地獄に落ちるものとを選別するという終末観があります。いわゆる最後の審判ですね。これをこの映画に当てはまれば、ラストシーンがまさに最後の審判ということになるのでしょう。宮腰は審判の結果、命を落としますがつまり作品としては、生まれついての悪は、仕方ない、ということ…?

 うまく考えがまとまらないまま書いてしまいましたが、こういう風にいろんなことを考えさせることが狙いだったとは思うので、各々が考えることが大事なんでしょう。悪い映画だとは思いませんでしたが、同時期に似たような「罪」を扱った傑作「スリー・ビルボード」が上映されていて比較対象となるのが不憫かもしれません。