抹茶飲んでからマラカス鳴らす

見た映画、読んだ本、見たアニメ。そんな話を中心に。。。

ホラーの顔して、アメリカの今をぶった切る「アス」感想

 どうも、抹茶マラカス (@tea_rwB)です。

 関東に台風15号が直撃してなんやかんやですが、個人的に激戦区の9月の中でも最激戦の6日公開の映画の感想をここから少しずつ。前作「ゲット・アウト」がアカデミー脚本賞を受賞したジョーダン・ピール監督の最新作。ホラーは苦手ですし、「ゲット・アウト」も見てませんが、脚本勝負の作品ならいけるのでは…?と「ハッピー・デス・デイ」を乗り越えただけの心臓で挑んできました。

【映画パンフレット】アス US 監督 ジョーダン・ピール キャスト ルピタ・ニョンゴ、ウィンストン・デューク、エリザベス・モス

WATCHA4.5点

Filmarks4.4点

(以下ネタバレあり)

 

1.二度と映画館でホラーは見ないぞ!!

 いやもうね、結論から言ってしまえばとっても面白くていい映画なんですけどね、二度とホラー映画は映画館に見に行くか!!とも思ってしまいましたよ。

 色々あるんですが、まずは開始前。よく考えればそれに気付いて、ギリギリに入場すればいいのかもしれませんが、予告編は当然上映される作品の層に合わせて流れますよね。アニメ映画ならアニメ系の予告、邦画なら邦画、そう、ホラーならホラーです。「アナベル死霊博物館」「IT THE END それが見えたら終わり」みたいな絶対に見に行かないガチのホラーの予告編の時点でこっちの心臓がもう臨界点ですよ、ええ。アナベル怖そう過ぎてダメだってあんなん。なんだよ、ホラー版ナイトミュージアムって。

 んで、当然音響設備ですよね。自宅のスマホやPCで見るのと一番違う。特に無音。いや、これって本来映画としては褒めるべきところなんですよ、よくできているってことですから。でもノミの心臓の私にはそれをエンタメとして楽しめる余裕がないんじゃ…。なんなん、あの不吉な何語かも分からない民謡みたいな曲とか、終盤地下に潜っていく時に入った手拍子とか、黒板ひっかいたタイプの音とか。こっちは親から「過敏すぎるあなたへ」みたいな本贈られる程度にはビビリなんだよ!!(完全なる逆切れ)

 うん、まあホラー映画として音響・音楽演出は最高だったってことです。でも、もう見ねぇぞ…

 え?「シャイニング」の続編「ドクター・スリープ」に、イザベル・ユペール×クロエ・グレース・モレッツの「グレタ」を見る気だろって?その頃にはこの記憶無くして愉快に楽しみだとかいってはしゃいでんだよ、わかるでしょ、映画ファンなら。

2.ドッペルゲンガーものとして

 今回は家族4人が自分たちを襲ってくる、というか、全米でドッペルゲンガーが植木鋏で襲ってくるというのが乱暴なあらすじだと思うんですけど、文芸や映画の文脈で言えば、ドッペルゲンガーものっていくつかのパターンがある印象で。

 まずは単純に双子とか隠し子みたいなパターンで入れ替わりトリックとかで使われやすいパターン。まあでもこれって、どっちかと言えば第三者からの目を欺くためで、首切り死体とかで身元の誤認みたいなのが多いっすね。横溝正史的というか。

 それから、科学の産物で出来たクローンみたいなパターン。「SPEC」シリーズのニノマエシリーズとかですかね。わかんないけど秋公開の「ジェミニマン」とかそれっぽい。違った、「レプリカズ」と間違えてた。「ジェミニマン」は「ルーパー」タイプだった。

 そんで、実は自分にしか見えてないパターン。このパターンだと、ドッペルゲンガーとして出てくるよりも理想のなりたかった自分の顔や姿で出てくる方が多いし、多分映画もこのパターンが1番多いですかね。

 ラストに、少しドッペルゲンガーからはズレますけど、タイムリープ系で時間軸の違う自分に会うってパターン。映画とかだと「なんか似てんな?」ぐらいで済まされることが多い気がします。

 んでんで。こういうドッペルゲンガーを題材にした映画って、結局自分の中にある悪い部分だったり、越えられない壁を打破して成長するための障壁、象徴としてドッペルゲンガーが存在するわけじゃないですか。今回の「アス」でも幼少期に出会ったドッペルゲンガーからの復讐、の雰囲気で物語が進んでいきますが、基本的にドッペルゲンガーは元の自分を襲うし、殺す殺される関係が逆転した時も同じ顔同士で決着をしています。だから今回の映画もわかりやすく成長物語としての側面があるんだな、なんて見てた人も多いのではないでしょうか。まあ車の上にに乗られたおっさんはフツーに殺されてましたけど。

 ですがですが。今回の映画はそこに一捻りあって、そもそも襲ってくるのを乗り越えること自体が主題じゃない、ということと、実はドッペルゲンガーだと思って殺した方が本体で、自分がドッペルゲンガーだった、というオチ。普通は襲ってくるものを撃退するのが物語のカタルシスになるんですけど、この映画って別にカタルシスは無いんですよね。いやーな感じを残して終わりですし。

 うん、正直これ入れ替わってるのでは?というのはアバンタイトルで幼少期の主人公がドッペルに遭遇した時点で考えてました。喋らなくなる、というのもドッペルに遭ったショックだけだと弱い気もしてて。なので物語的なオチ自体は読めてたことになるんですが、まあメッセージと演出の巧みさで魅せる映画でした。それは次章。

3.”us”とは誰なのか

 結局のところ、映画を通して浮き上がる疑問は以下の通り。

 第1の疑問に対しては、劇中でざっとながら説明をされています。声明を出す必要があって、計画していたんだ、と。その声明は冒頭で説明された「ハンズ・アクロス・アメリカ」の再現、ということでしょう。これは彼らの正体の話にもリンクしてきます。「ハンズ・アクロス・アメリカ」は劇中にもあるように1986年に手を繋いでアメリカを西海岸から東海岸まで横断するチャリティプロジェクトで、まあわっかりやすくいえばあれですよね「We are the world」の流れですよ。これでアメリカの連帯とか、貧困・飢餓に立ち向かおう!的なイベントなのでしょうが、それをドッペルゲンガーたちでやり直す、その為に本物を殺す、というのが目的。


MTV Hands Across America Promo (1986)

 ってことで、話が面倒になる前に第3の疑問の方に移りますが、このドッペルゲンガーたちの正体はどうやら政府が過去に作り出してしまったクローン的なやーつの不完全なもの。さっきのドッペルゲンガーの出し方だと2番目ですね。しかも彼らはうさぎたちと一緒に地下に放置されているどころか、作成元となった人間と同じような動きをさせられている、という恐怖。彼らが暮らしているのは遊園地の地下で、主人公たち及び友人の一家が別荘で過ごしていることを考えると、地上は別荘、地下はクローン。完全に貧富の格差を象徴しているでしょう。しかも地上の場面は真っ暗が多いのに、地下は嫌味なぐらい真っ白じゃないですか。この地下に向かうエスカレーターが下り一直線なのもアメリカ社会の虚像としてのアメリカン・ドリームを浮かび上がらせます。

 そんな彼らが表に出てきてハンズ・アクロス・アメリカをやり直す。つまり、今一度貧困層、格差の拡大に目を向けろ、という監督からの強烈なメッセージ。ハンズ・アクロス・アメリカから、30年経ったって、貧困も飢餓もなくならないどころか、格差は拡大している。主人公たち、地上の人間が地下の人間に殺されて日常を奪われることは、トランプが煽る白人の特権的地位の相対的な低下ともつながりますし、中産階級の持つ危機感と一致するはずです。ここまで来て、中盤での襲来時のやりとりが思い出されます。

 「我々はアメリカ人だ」

 政府に捨てられている地下の人たちだって、アメリカ人のはず。”us”とは私たちでもあるけれど、”United State's”でもあるのだ。

 とまあ、ここまでは考えたり調べたりして監督の言いたいことは類推できたんですけど、正直第2の疑問に関してはさっぱりで。物語的にすぐ殺したら映画にならないじゃん、と言われればおしまいなんですけどね。エレミヤ書第11章第11節とかウサギについても、解釈が難しくてよくわかんないし、これから色んな人のブログでも読んでみようと思います。「ゲット・アウト」もちゃんと見ようっと。