抹茶飲んでからマラカス鳴らす

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ケツの穴が小さい原作主義者の悲嘆「Diner ダイナー」感想

 どうも、抹茶マラカス (@tea_rwB)です。

 今回は試写会で事前に見ていた私の愛する小説「Diner」の実写映画化の感想です。エンドゲーム、ゴジラ、そしてこのダイナー。この3本柱が正直言って今年最も命が危なくなる映画として考えていました。結果は如何に。まあタイトルやTweetでバレてますが。始めに褒めておきます。真矢ミキは超かっこよかった。

これだけやった後に、メキシコでallロケした「Diner 2」はもうダイナーじゃねぇから看板は下ろしてやってくれな。

映画チラシ ダイナー 藤原竜也

WATCHA1.5点

Filmarks1.5点

(以下ネタバレ有り)

 1.私が愛した小説版

 改めて原作小説平山夢明さんの「ダイナー」がいかに素晴らしいか、好きか、ということはまあ別記事を参照していただくとして。原作がついているものを映画化するにあたって多少の換骨奪胎ぐらいで騒ぐのは大人げないと最近は落ち着きだしております。どうか最低限守ってほしいエッセンスだけは残してくれればそれでいいと。「ハルチカ」はエッセンスごと変えやがったので許すことはありませんが。では、平山夢明の「ダイナー」にとってそのエッセンスとは何か。

 まずは小説内のボンベロの台詞から引用。

 

「客の中には気に入らなくておまえを殺そうとする奴もいれば、気に入ったから殺そうとする奴もいるだろう」

 

 ずぶの素人であるカナコがどう振舞っても崖っぷち、命が実に軽いことを示す台詞であり、映画ではDinerという名になっている食堂、キャンティーンの緊張感を表す台詞でもある。

 続いて、文庫版にある福澤徹三さんの解説から引用する。

 

 狂気や暴力を描くには、あくまでも理性的でなければならない。理性的であるからこそ、常識から乖離した世界を活写できるのであって、主観に溺れては、ただグロテスクなだけの表現に終わってしまう。美味という生理的な感覚を表現するのにも、同じことがいえる。ただ旨い旨いとひとりよがりに陥っては、文章で食欲を喚起することなどできない。

 

 カナコ自身の主観表現にも関わらず、料理描写と残酷描写に関しては理性的に見せることでその暴力的なまでの美味と息を飲むほどの残虐性とが達成されている。本来食=生と暴力=死は相反するものだが、根源にある力は非常に似ている。これをこれまで読んだ後に人を嘔吐させかねない文章力で残酷表現をしてきた平山夢明だからこその境地で為し得たのが小説版「ダイナー」なのだ。

 あ、平山夢明さんの本を読んだことが無い方に言っておきますが、原作「ダイナー」は極上のエンターテインメント小説なうえに、平山夢明にしては全然グロ少ないですから安心してお読みいただいて、それから「独白する横ユニバーサルメルカトル」とかに手を出していただくのが良いと思いますよ。

ダイナー (ポプラ文庫)

ダイナー (ポプラ文庫)

 

 

2.痛みを伴わない美味

 翻って、蜷川実花監督×藤原竜也主演で行われた今作はどうだったろうか。正直なところを言えば、予告編の時点でげんなりしていたのが事実だ。ボンベロは叫ぶ。「おれーはー王だ。砂糖の一粒までが俺に従う。」おいどこ行った理性。

 ついでに言えば本作は映倫の指定はGだ。え、グロ要素なしなの!?

 ここまでを覚悟してハードルを下げに下げて臨んだのが本作。そしてその評価だということを分かっていただきたい。それでも文句が止まらないのはケツの穴の小さいオタクの性なのだ。

 ボンベロが叫ぶところはおいておこう。後に触れる。

 この作品を語る上で欠かせない暴力の話からだ。映倫の指定通り、目を背けたくなるシーンは皆無。そこに存在するのはノワール的な暴力ではない。

 本来、1番分かりやすい残酷表現は間違いなくスキンだ。スキンは原作では見るもおぞましく、劇中で縫った針の数が千を超える。ところが、窪田正孝演じるスキンはどう考えても切り傷が人より多いぐらい。ちっともグロくない。

 結局このスキンのビジュアルが公開された時点で分かっていたことだが、全体的に痛みを伴わない暴力が多すぎるのだ。冒頭カナコがダイナーに売られるきっかけになるシーンでも殆ど暴力を受けずに吊るされている。そんなわけがねぇ。途中、キッドが人を殺したり、カナコに襲い掛かるシーンでもそうだが、鮮血が噴き出すことはなく、じんわりと血がにじむばかり。菊千代が顔の半分を食って骨が見えるシーンなんてあっさりカットだ。挙句の果てに、映画オリジナルキャラマリアが一瞬で無礼図に殺されるシーン。頸動脈をナイフでかっきられて血が飛ばない。結局よくわからないうちから出てくる異国のメイク(多分「リメンバー・ミー」のやつ)の方が気色悪いという意味の分からない結果に。

 そして、よくわからないところから落ちてくる花。これが出血の代わりらしいが、そんなことされても痛くなさそうなので殺しのトッププロたちに見えない。

 こうして直接的な傷口を描かないことで、痛みを感じない映画になっており、それは即ちカナコがダイナーで命の危険を感じる緊張感が全くない、ということにも繋がる。ついでにいえば、殺し屋のキャラクターを人気のあるであろうスキンとキッドに絞ったのでメシへのこだわりがある殺し屋がスキンしかいなくなってしまった。スキンはエピソード上、特製スフレを出さないとスキンが死ぬので、この客にはコレを出さないと殺される、という緊張感も欠如してしまったのである。こうした緊張感の欠如は、歴代のウェイトレス8人が写真からハリーポッターの世界のようにリアクションしていることでますます加速する。殺されたり、贓物だけ売り買いされたり、悲惨な目にあったはずの歴代ウェイトレスが楽しそうなのである。このダイナー、端的に言って居心地がいいのだ。劇中でカナコが逃げ出さないことに納得がいってしまう。

 そしてこうした痛みを伴わない描き方が一番問題なのは、食にもこれを応用してしまったことだ。原作で描かれる暴力的美食の数々。しかし、本作ではメルティ・リッチとスフレの2本立てオンリーでお届けしている。確かに食材を色ごとに映し、完成した品も耽美ではある。だが、肉を焼くシーンばかりが寄りで映され、多種多様な料理を作ったはずなのにその形跡がちっとも見られない。せっかくブロウを改変した武田真治のブロがいるのだから、そっちにもちゃんと凝った料理を見せないと。結局よだれがでることは無かった、と言っておく。もっと飯を旨そうに撮れ!

3.キャラ使いと脚本の雑さ

 アプローチからして原作厨には気に入らなかったが、より気に入らないのがキャラの使い方と脚本の粗さだ。

 もともと連作短編集の形をとっており、山場が怒涛のように押し寄せる原作本。だが、そのつくりは短編集だから可能なのであって、同じように作ってはダメだ。ところが、今回はキッドとスキンだけ殺し屋を登場させ、一番メインのところは無礼図を男装麗人にして、更にはマリアを新設、なんかハイ&ロー的に組織を東西南北で分けてデルモニコの後継者争い、という話に。だが、スキンはスキンで、キッドはキッドで勝手に死ぬので、結局キッドの話、スキンの話、跡目争いの話、の3つが全く繋がっていない。かろうじて、スキンがマテバの部下でマテバに命じられて秘密を探っていた等の設定を加えているので連続性を出す努力は見えるが、うーん。うまく行っているようには見えなかった。

 そしてほぼオリジナルで進む後継者争いの会談。コフィが裏切りを認めるのはスキンの遺したコフィのメモだけ。いや、それ証拠にならねぇって。その瞬間に無礼図もマリアも疑うことなくコフィを殺ろうとしている。コフィもしどろもどろに。いや、なんなのこのトップたち。従う奴らが可哀想に思えてくる。もし、マテバがマリアか無礼図のどっちかと組んでデルモニコを殺し、仲間割れの後にマテバを殺害。スキンを通してコフィに汚名を着せればすぐトップになる、なんて可能性が頭にもよぎらないのか。

 そうした脚本上のアレもさることながら、キャラの使い方、動かし方だ。結局あっさり退場する新キャラのマリアや意味もなく昆虫食ってたマテバ、男装麗人になった必要性も感じられない無礼図、あれだけの猛者を1年間は統治していた割に小物にしか見えないコフィ。最終決戦で何発か撃たれただけで放っておかれたり、キッドからの攻撃をカナコに守ってもらうただの犬っころと化した菊千代。その狂人加減がちっとも描かれず悲しく去っていくだけのキッド、魅力の見た目をつぶされ、ただの優しいイケメンと化したスキン。キャラの魅力を全く引き出すことなく、置かれた環境をボンベロに説明させておしまい、ではキャラで引っ張る話なのに全くそれが出来てない。

 そしてメインになるのだから、致命的なのがボンベロとカナコだ。

 まずカナコ。別にくたびれた30手前ぐらいから無知な女の子にするのはいい。ただ、原作で彼女の中には子殺しという前科があり、そこがちょっとしたアクセントになる。そして何より当然名前の通り「大馬鹿な子」なのだが、主観視点のため意外とバカなりに考えていることもわかる。そこを改変し、生きる希望が無い理由が昔母に捨てられたせいで「いらない子」だと自分を思っている、という要素を追加した。その追加自体はまあいいんだけど、これも脚本が下手なのか、同じような境遇のスキンとの一幕でそのトラウマを払拭できてしまっている。これではその後の話での推進力にはならない。

 そして何より玉城ティナさんの眼だ。彼女の演技が悪いのか、演出が悪いのか、彼女を起用した側が悪いのかわからないが、彼女は非常に意思のある強い目をしている。そこに現れるのは反抗・生きる意志であり虚無や絶望ではない。カナコが強い人物として描かれてしまう。

 続いてボンベロ。冒頭に書いたように、天才的な料理の腕前で且つ殺し屋なのだから、彼は最も理性的でなくてはならない。そこには芝居じみた叫びなどいらない。この時点で原作からの解釈違いが起こっている。ボンベロがカナコに対して距離を縮めていくのは本人も気づかぬうちで、キーとなる台詞「ありがとう」でトリガーが引かれるのは変わっていないが、そこに対するボンベロのレスポンスがない。「ありがとうと言われるが大嫌いだ!」「ありがとうと言われることは何一つとしてしていない!」。これが大事じゃないですか。なのにない。結果、ボンベロはカナコに対して何を思って反逆行動を起こしたのかさっぱり分からないし、だからあんなラブに繋がってしまう。「ありがとう」と言われることが、彼のここまでの理性的な考えが揺さぶられ感情が爆発し、初めて普通しない行動を取ってしまう、この展開が熱いのであって、両者は恋愛感情などいらないのだ。そういった意味ではラストも蛇足だ。会いに行ったらボンベロじゃない。

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4.原作付きでやらなくていい

 こうした不満がたくさん出てくるのは、一番のところは原作をリスペクトしていないことが丸わかりだからだ。何故ボンベロが叫ぶのか。何故デルモニコの後継戦争を大仰にするのか。何故無礼図は男装麗人にキャラ変したのか。

 すべての原因は座組にある。即ち、天才演出家蜷川幸雄が見出した藤原竜也が、その実子にしてこれもまた独特の色彩感覚などでカリスマ性を持っている蜷川実花とのタッグを組んだという映画の外の文脈だ。これを蜷川実花監督が意識してない訳が無い。なぜならば。

 ボンベロを見出し、育てたデルモニコの写真に着目してほしい。彼を演じるのはその蜷川幸雄なのである。この時点でただでさえ、強力なはずの原作よりも強い映画外の文脈が強化されるのに、そこでボンベロが叫ぶ。「俺は王だ。」。蜷川幸雄を頂点として、ボンベロが王であることを高らかに歌い上げる姿は、蜷川実花監督の王位継承宣言とも受け取れる。そう考えると、ラストバトルになる相手がおっさんではなく男装麗人の無礼図に変更されることも納得できるし、冒頭からの個人的には不必要に感じる演劇を用いる手法、ところどころでの演劇に近い演技。全てに納得がいく。

 だが、ちょっと待ってほしい。それは、この1作を楽しみに、平山夢明の実写化を待っていた人たちに対してあまりに失礼でリスペクトがないのではないだろうか。身内での王位継承など、その為の脚本を自分で書き下ろして、オリジナルで出来ないのか。お金が下りづらい昨今なのは承知だが、原作付きの作品で明らかに原作と違うモチーフを投入してここまでされると原作ファンからしたら絶望だ。

 インタビューで監督は、自身の守備範囲外のアクション作品となることについて、だからこそ自分の持ってる武器を全投入したと語っている。なるほど確かに、あなたの武器はさらけ出されたかもしれない。でも結局アクションはカメラワークはブレブレで何をしているのか分かりづらいし、目を見張るアイデアもそこにはなく、ドボルザーグかけながらマトリックスする感覚は私は理解できない。挙句プロの殺し屋なのに道具に対するこだわりも全く感じられなかった。ジョン・ウィック見てない私が言うのもなんだが、殺し屋というものをもう少し勉強してほしかった。