どうも、抹茶マラカス (@tea_rwB)です。
レアル行かないで建英…
Filmarksの試写会で見ると、アプリのレビューに貼り付けたいがために公開前にブログを公開することになります。ほんとは公開まで寝かせたいんですけどね。という訳で試写会で見てきたばかり。スティーブ・マックイーンとダスティン・ホフマンの共演が著名な古典「パピヨン」のリメイク版の感想です。まあ名作のリメイクだから面白いよね、フツーに。
試写会の当選連絡が実施2日前に来た(つまり追加当選)から、オリジナル版は見ていない感想になりますよー、と。便宜上「パピヨン」と呼称するものはすべて2019年日本公開版のことと考えてください。
WATCHA4.0点
Filmarks4.0点
(以下ネタバレあり)
1.圧倒的地獄。だからこそ輝く自由。
脱獄もの、と言えば外れを思い出すのもなかなか難しいジャンル(大脱出2の酷評から目を背けながら…)で、過去の名作履修不足の私でも「大脱出」「アルカトラズからの脱出」など傑作が頭に思い浮かびます(「暴力脱獄」「ショーシャンクの空に」あたりは見てない、すまない。)
そんな脱獄ものの醍醐味はどう考えても困難な状況からどのような工夫で脱獄するか、という閉ざされた空間(主に刑務所ですが)での工夫、そしてそこで育まれる戦友ともいうべき男たちの絆。この「パピヨン」という映画は、その点ではもしかしたら少し物足りないかもしれません。
脱獄ものの第1歩はその空間がどれだけ脱出不可能なのかを中にいる人物に理解させるか、です。その為に見せしめで割とサクッと1人死んだりしますね。「パピヨン」ではこの説明がされることはあまりなく、脱獄を試みた場合の刑罰のみが監視官から語れるのみ。その為、どれだけ脱獄が困難なのか観客には少しわかりづらい。例えば、上空からの俯瞰ショットなどをいれない、つまり観客の情報量は制限され、基本的にはパピヨンと全く同じ情報量になる作り方になっています。
なかなか評価が分かれることだと思いますが、個人的にこの情報提示はアリだと思いました。脱獄を決意した人物の前にどれだけの障壁を提示しても諦めてしまう程度なら物語として成立しないし、諦めないなら本人にとって精神的障壁は無いわけで。だったらあえて描くことなく実際に脱獄して見て理解する、ということでいいと思います。
こうした情報提示の結果、先述のように観客の持っている情報は完全に主人公のパピヨンとリンクした状態に置かれます。人を殺めればギロチン処刑なのも、1回目は2年の独房、2回目は5年の独房と悪魔島、という事前説明だけで起きて初めて目の当たりにする。
かなり特殊なのは、フランス領ギニアに行く船内や、2年間の最初の独房生活の描き方。既にラミ・マレック演じるドガと仲間になっているにも関わらず、カメラの視点はドガに切り替わることなく進んでいく。そこで強調されるのは本当に長期間1人ボッチで管理下に置かれる恐怖や孤独。つまりこの「パピヨン」はどう脱獄するか、ではなく脱獄したくなる地獄はどんなところか、という描写に全力を傾けている。ちょっと専門的なことを言えば、社会学者・哲学者のミシェル・フーコーが語る権力関係の発生する地場としての「監獄」的なものが描かれつくしています。
- 作者: ミシェル・フーコー,Michel Foucault,田村俶
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1977/09/01
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この監獄部分が強調されたことで最後には分かっている脱獄での自由が大きく輝かしいものに映る訳だし、それが生への讃歌ともなる訳ですね。
そうすると思い出すのは、元TBSアナウンサーの宇垣美里さんの名言。「私には私の地獄がある」。最終的にパピヨンとドガは選ぶ道が分かれます。ドガにとって悪魔島は地獄ではなかった。だからドガはパピヨンについていかない。パピヨンを5年間待つ間に悪魔島がホームになったんだろう。
それともう1点。視点が全くブレないので、パピヨンと情報量は一緒だし、つまりは追体験に近い状態。それを強く補強するのがラストシーン。即ちパピヨンがこの脱獄劇を本として出版しようとする場面。実際、「パピヨン」は著者の脱獄経験から書かれている本ですが、果たしてそうなるとこの話ってどこまで信用できるのか。コソ泥だったのは本人も認めているんだし、意外と盗みの現場を見つかって殺しちゃったのを逮捕されてギニア送り、でも反省せず脱走を目指すみたいな、稀代の大悪人かもしれません。カメラワークのおかげでこうした自己物語的な要素も強く感じました。犯罪に関する当事者が「物語」を語る、という点では「アメリカン・アニマルズ」が最近ではありましたね。
2.何故今「パピヨン」なのか
ここで考えたいのは、何故今この作品のリメイクなのか。そりゃ、映画業界全体が一部の監督を除けば、収益の見込めるリメイク・リブート、続編まみれだから企画を通しやすかった、という現実問題は分かります。分かりますが、その上で。
まず第1に時代が変わったことによる関係性の描き方の変化が可能になった。これはオリジナル版を見ていないのでコメントするべきではないかもしれません。もし違ったらご指摘いただきたいのですが。
本作で、パピヨンは当初脱獄に必要な資金立てのために大金を隠し持つドガに声を掛け、あくまで利用する・される関係でした。ところが、船内で友人になったジュロの死体を運ぶ過程でドガを庇う形でパピヨンは脱獄、今度は独房に入れられたパピヨンにこっそりドガがココナッツを密輸。そして2年会えない間も、更にはその後の2度目の脱獄からの捕縛も、悪魔島での邂逅もちゃんとドガは待っている。完全に会えない時間が想いを強くするブロマンス的アプローチ。これを描けるのは時代が変わったから、というのは間違いなくあるのでは。
第2に、やっぱり移民・難民関係ですよね。どうしたってこの地獄は嫌だ。じゃあ振り返って、自分は嫌なこの地獄に誰かを放り込んでいないか?という問いかけは当然なされるもの。
そして、こうした映画が定期的に作られる意味として、本作における事実上の棄民政策、そして奴隷のような監獄、つまりは人間の行った誤った歴史を記録する、そして忘れないため、ということも書き足しておきます。